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と安西の後ろで靴を半ば踏み潰すようにして履き、僕は部屋を出た。安西は「あ、ごめん」と小さな声で言っただけだった。  安西のお父さんという人は、背の小さな肉付きのいい人だった。その人は僕を見てびっくりした様子だったが、すぐに僕から視線を逸らし、安西とまた何やら話し出した。その人が身体に付けてきたのか、僕たちが帰ってきた時にはなかったはずなのに、廊下には所々桜の花びらが落ちていた。僕は足早にエレベーターホールへ急ぎ、エレベーターが来ると自分の家のある7階のボタンを押した。  次の日、教室へ入ると、彼女は席にいなかった。 「今日は、皆にお知らせが一つあります」 と担任は教室に入ってくるなり、言った。 「安西さんが昨日付けで転校しました。急に決まったことなので、皆さんにお別れの挨拶ができなくてごめんなさいとのことです」  僕は一瞬担任の言っている意味がわからなかった。教室全体がざわついた。 「はいはい、皆静かにしてね」  僕はいきなり立ち上がった。 転校したってどういうことだ?僕は、何も聞いていないのに。 「ちょっと、新田君、どこ行くの?安西さんは、もうこの街にはいないのよ」  教室を出ると、後ろで担任の声がしたが、僕はかまわず走った。マンションに着き、エレベーターのボタンを押した。エレベーターを待つ時間も、エレベーターが昇っていく時間もひどく遅く感じた。昨日見た桜の花びらが踏みつけられて、茶色く変色していた。  安西の家の玄関のノブは、簡単に回った。ドアを開けると、いつもあったゴミの山も、僕が持ってきてそのまま置いておいた望遠鏡もそのままそこにあった。ただ、人の気配だけが全くなくなっていた。窓からはいつもと変わらず、スカイブリッジが見えた。薄曇りの白っぽい空の中で、スカイブリッジはその輪郭を失い、ぼんやりと霞んでいた。  僕は窓際に置いてあった望遠鏡をスカイブリッジの方向へ合わせ、覗き込んだ。視界全体が真っ白で何も見えなかった。いくらピントを合わせ直しても、同じだった。  どうして見えないんだよっ。  僕は望遠鏡を叩きつけた。望遠鏡が倒れた。どこにあったのか、小さく折りたたまれたメモが一緒に落ちた。僕はそれを拾って読んだ。  圭へ  私は今夜、この街を出ることになりました。どこに行くかは、誰にも教えてはいけないと父にきつく言われたので、書きません。ごめんなさい。
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