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 ある日僕の呼びかけに応えることもなく、うつ伏せのまま倒れ込む泰介さんを見て、僕は風呂に入っていた哲さんを急いで呼びに行った。哲さんがタオル一枚で風呂から出てきて戻った時には、泰介さんは床に血のようなものを吐いてしまっていた。 「圭君、用賀先生に電話して。訪問看護ステーションの水木さんにも。あと、泰介さんの着替えも取ってきてくれると助かる」 「わかった」  自分の心臓が大きく跳ねているのがわかる。足下に地面を踏みしめている感覚が全くなかった。それは僕だけではなく哲さんも同じだったようで、着替えを渡す時に触れた哲さんの手は、氷のように冷たかった。戻ると泰介さんは、酸素マスクをしていた。それでも泰介さんの顔色は、ますます白くなっていくばかりだった。  哲さんは何度も何度も泰介さんの名前を呼んだ。ただ名前を呼んでいるだけなのに、何だか切なかった。目の前に大切な人がいるのに、何もできない無力な自分を呪うような、そんな叫びにも似た響きだった。駆けつけてくれた水木さんが心臓マッサージを始めた。  ようやく用賀先生がやってきた時には、泰介さんはもう、ほぼ息をしていなかった。 「厳しいかもしれないな」 と用賀先生が言った。  その夜は、何とか保った。次の日、僕は高校を休みたかったが、哲さんが「学校へは行きなさい。泰介さんもきっとそう思ってるはずだから」と言うので、登校した。  しかし、昼前に僕は泰介さんが逝った知らせをもらい、小雨が降り続く梅雨空の下、走って家に帰った。濡れるのも気にならなかった。  元々身体の色が白くなっていた泰介さんの肌から、白い色さえも抜けてしまったのを見て、ふと、僕は昔家出をした時に助けてくれたあのホームレスのことを思い出した。そして、安西舞香のことも。想像する力の大切さ。幸せだと思うのは自分の心一つだということ。  大切な人とはいつか必ず別れなければならない瞬間が来る。それでも、別れた後に、確実に残るものがある。僕の中に、大切な人がくれたものの種が芽を吹き、生き続けている。  昼間は霧でほぼ隠れていたスカイブリッジが、ライトアップされた夜になってくっきりとその姿を表した。夜の闇に浮かび上がる豪華客船のようだった。ああ、泰介さんはあれに乗っていくんだなと思った。
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