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「ねえ、ちょっと、私の名前くらい聞いたらどうなの?」 とエレベーターに乗りながら、彼女はちょっと苛々した口調で僕に言った。僕はそれさえも無視して、エレベーターの行先階数のボタンの中で、一番多い数字のものを押した。彼女はそれを見てなぜか押し黙った。初めて沈黙が広がった。エレベーターのディスプレイに表示される階数表示がどんどん大きくなっていくのを僕はじっと凝視していた。 「残念。エレベーターでは屋上には行けないわよ」  十階を過ぎた頃、彼女が口を開いた。僕はなぜ自分の考えていることがわかったのかと思い、思わず彼女の顔を見つめた。彼女は、屋上に行って僕が何をしたいのか、何をしようとしているのかについては尋ねなかった。僕は彼女から目を逸らして、再び階数表示に視線を移した。ポーンと音がして、最上階にエレベーターの扉が開いた。  エレベーターの正面から橋全体が何にも邪魔されずに見えた。やや橋を見下ろすような格好になり、むしろすぐ傍の雲にすら手が届きそうな気がした。橋の下の右側と左側にはごちゃごちゃと小さな箱のようなものが地面に張り付いていた。中には少し高さの高い箱もあったが、この位置から見ると、すべて似たような程度にしか思えない。  ふと人の気配を感じて振り返ると、彼女がまだ立っていた。 「勘違いしないでよ。アタシの家も、この階なの」 と彼女は言ったが、僕の様子を観察したまま動かない。  やはり、しかしたら彼女は気付いているのかもしれない。僕の思いに。なぜ屋上に来たか、その理由に。 「…名前、聞いていい?」 「安西舞香。皆、アタシのこと苗字で呼びすてにするから、アンタも呼び捨てにしていいよ」  安西はそう言いながら歩き出した。まるで僕に付いて来いと言っているような自信に満ち溢れた彼女の態度に、僕は面食らった。でも、それがよかった。それでよかった。  安西の家は、エレベーターホールから右手側の3つ目の部屋だった。安西は、ランドセルからプラスチック製のコードで伸びているカード入れをドアノブの上にかざすと、ドアを開けた。 「入って。誰もいないから」 と彼女は部屋の奥へ入っていった。  マンションの外装とは裏腹に、玄関のたたきには、ゴミ袋がたくさん積まれていた。僕はそのゴミ袋の山を倒さないように気を付けて、靴を脱いだ。 「ほら、見て。よく見えるでしょう」
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