切腹

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 元禄16(1703)年2月4日、芝白金猿町にある細川(ほそかわ)越中守(えっちゅうのかみ)綱利(つなとし)の下屋敷において、同邸に召し預けられていた播州(ばんしゅう)赤穂(あこう)浅野家元家来の大石(おおいし)内蔵助(くらのすけ)以下17名に切腹の沙汰(さた)が下された。亡君・内匠頭(たくみのかみ)の「仇(かたき)」であった高家(こうけ)・吉良(きら)上野介(こうずけのすけ)を「見事」に「討ち取って」魅(み)せたがためである。所謂(いわゆる)、「赤穂義士」たちであり、内蔵助(くらのすけ)以下、「四十七士」がおり、うち一名が本懐を遂げた後に逃亡したために今は「四十六士」であるが、内蔵助(くらのすけ)以下17名の他にも、それぞれ他家に召し預けられていた者たちにも同様に切腹の沙汰(さた)が下った。  第一番目に切腹の御声(おこえ)がかかったのは無論、「四十七士」を率いてきた内蔵助(くらのすけ)である。内蔵助(くらのすけ)は真新しい白装束(しろしょうぞく)に身を包まれていたく満足気(まんぞくげ)であったが、しかし、そんな内蔵助(くらのすけ)を吉田(よしだ)忠左衛門(ちゅうざえもん)が厳しい眼差(まなざ)しで見つめていた。忠左衛門(ちゅうざえもん)もまた、「四十七士」の一人としてこの屋敷に召し預けられ、内蔵助(くらのすけ)に続いて二番目に切腹することが決まっていた。  その忠左衛門(ちゅうざえもん)が内蔵助(くらのすけ)に厳しい眼差(まなざ)しを向けていたのだ。一方、内蔵助(くらのすけ)にしても何ゆえに忠左衛門(ちゅうざえもん)が己に厳しい眼差(まなざ)しを向けてくるのか、その理由には心当たりがあった。  話は去年の12月14日、泉岳寺(せんがくじ)にまで遡(さかのぼ)る。
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