名優・内蔵助

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名優・内蔵助

「そこもとの足軽(あしがる)である寺坂(てらさか)吉右衛門(きちえもん)が泉岳寺(せんがくじ)までの途次(とじ)、逃亡を図ったのでござる。このことが表沙汰(おもてざた)とならば、吉右衛門(きちえもん)の主(あるじ)に当たるそこもとの名にも瑕(きず)がつこうと申すもの…」  えっ、と忠左衛門(ちゅうざえもん)は声を上げた。それは忠左衛門(ちゅうざえもん)のみならず、他の者にしても同様に声を上げた。つい今しがたまで、四十七人がうち揃(そろ)っているものとばかり思っていたからだ。それがよもや一人だけ…、忠左衛門(ちゅうざえもん)の足軽(あしがる)の寺坂(てらさか)吉右衛門(きちえもん)が逃走を図っていたとは…。  よもや内蔵助(くらのすけ)が虚言を弄(ろう)してその場を切り抜けようとしているとは思いたくなかったが、それでも念のため、皆、点呼(てんこ)したところ、なるほど、内蔵助(くらのすけ)の言う通り、吉右衛門(きちえもん)の姿が見当たらなかった。 「確かに…、なれど…、皆が今の今まで寺坂の逃走を気づかなかったのを何ゆえに、太夫(たゆう)はそれを存じておられる?まさか、寺坂めが逃走を図るのをみすみす見逃してやったと?」  忠左衛門(ちゅうざえもん)が疑問をぶつけてみたところ、内蔵助(くらのすけ)は悪びれもせずに、「如何(いか)にも」と答えた。 「如何(いか)にもと…」  忠左衛門(ちゅうざえもん)は流石(さすが)に絶句した。 「寺坂は所詮(しょせん)はそこもとの足軽(あしがる)に過ぎぬ。されば軽き身分のものなれば、死ぬには及ばぬと、逃走を図るのを見逃してやったのだわさ」 「何と…」 「されば今、この場は見逃してくれれば…、拙者(せっしゃ)の申す通り、寺社御奉行の元へと自首しに参るのを許してくれれば、寺坂めが何ゆえに逃走を図ったのか、それは拙者(せっしゃ)と吉田殿とが相計り、寺坂めには忠左衛門(ちゅうざえもん)の家族の世話をさせるためと、適当な口実(こうじつ)をでっち上げて、そこもとと寺坂の名誉を守ってやるゆえ、な?」  内蔵助(くらのすけ)は醜悪(しゅうあく)なる本性を見せ付けた。一方、忠左衛門(ちゅうざえもん)にしてみれば名は命よりも重い。結果、内蔵助(くらのすけ)の姦計(かんけい)に負けた。
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