名優・内蔵助

2/3
前へ
/10ページ
次へ
 姦計(かんけい)…、それはとりもなおさず、吉右衛門(きちえもん)の逃走を許したのは他でもない、内蔵助(くらのすけ)自身が吉右衛門(きちえもん)に逃走を命じたからだ。 「いずれ我らは腹を掻(か)っ捌(さば)かねばならず、そうなれば吉田殿の遺族が路頭(ろとう)に迷うやも知れず、されば吉右衛門(きちえもん)よ、そなたは泉岳寺(せんがくじ)までの途次(とじ)、姿を消し、事の次第を吉田殿の家族に伝え、その面倒を見よ」  内蔵助(くらのすけ)は事前に吉右衛門(きちえもん)にそう命じておいたのだ。そうして内蔵助(くらのすけ)の手引きもあって、吉右衛門(きちえもん)は逃走することができたのだ。それにしても内蔵助(くらのすけ)がどうしてわざわざそんなことをしたのかと言うと、 「泉岳寺(せんがくじ)にて腹を切らないことにつき、うるさ型の吉田翁あたりがイチャモンをつけてくるでな…」  忠左衛門(ちゅうざえもん)の文句を封じ込めるべく、わざと吉右衛門(きちえもん)を「逃走」させたのであった。吉右衛門(きちえもん)は言ってみれば、泉岳寺(せんがくじ)にて痛い思いをしてまで腹を切りたくない内蔵助(くらのすけ)のいい出汁(だし)に使われたのだ。  まったく内蔵助(くらのすけ)の醜悪(しゅうあく)なる本性ここに極まれりであるが、しかし、これぐらい醜悪(しゅうあく)なる本性を持ち合わせていたからこそ、「討ち入り」という「義挙(ぎきょ)」を成功に導けたとも言える。  ともあれ、忠左衛門(ちゅうざえもん)が介錯(かいしゃく)してくれるのならば公式の切腹と同じで、つまりは痛い思いをしなくて済むのだから、内蔵助(くらのすけ)の思う通りであろうが、それでも内蔵助(くらのすけ)としてはこの場にて腹を切るのだけは嫌だった。  内蔵助(くらのすけ)としては今はもう血にまみれた…、汚い討ち入り装束(しょうぞく)で死にたくはなかったのだ。きちんとした、真新しい白装束(しろしょうぞく)で「見事」に「切腹」を果たしたいと願っていたのだ。何を隠そう内蔵助(くらのすけ)は「役者」であったからだ。それも「名優」である。
/10ページ

最初のコメントを投稿しよう!

0人が本棚に入れています
本棚に追加