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ふと我に返った僕は手元のボールを見つめる。ずいぶん古びたボールだ。今ではボールのデザインも変わっているらしいから、旧式のこのボールは少なくとも十二、三年以上は前のものだ。指をかけるヤマは削れ、水分を吸ってヒビ割れてもいる。右手に握り直し、もう一度壁に向かって投げてみる。
ボン。トン、トン、トン。
このボールも、
ボン。
昔は新品で、
トン、トン、トン。
白かったはず。
兄は勤務先の市役所では、地元の高齢者の年金にまつわる相談を受ける窓口の担当をしていた。高齢者を助ける仕事をしていながら、高齢者の自転車が原因で死ぬことになってしまった兄。弟に対していつも優しいのに、不器用で、いつも生意気な弟のせいで損をしがちだった幼い日の彼の姿と重なった。
「変わらなかったんだな」
生意気な弟は、兄の相変わらずの報われなさを笑ってやろうと思っていたのに、不意に喉の奥にこみ上げるものを感じた。それに気づくと、今度は涙が追いかけてきた。兄はもういない。死んだのだ。ようやく自分が何を失ったかに気づいた。僕は小さな滑り台に腰掛けて、涙腺のなすがままに声をあげて泣いた。
白かったボールには、土がつく。昔過ごした街は変わる。そして、人は死ぬ。しかし、土の匂いも、ボールをバウンドさせる壁の音も、兄の寡黙で優しい背中も、僕の中には残っていた。全てが幼い自分に何かを与え、無意識の拠り所として残り続け、今へ受け継がれる。
変わるものと変わらないもの。消えていくものと残るもの。
僕は、兄から何を受け取れただろうか。僕は、誰かに何かを残せるだろうか。
涙が止んで、ぼんやりとしていたら、あたりはすっかり暗くなっていた。ひんやりとした空気を肌に感じ、吐息で手を温める。振り返って見上げれば、そこにまた兄がいるような気がした。
兄を弔ったら、僕はまた忙しい日常へ戻る。営業先に頭を下げる日々だ。兄は東京の空にもいるのだろうか。弱気な自分に気づいて、僕は苦笑した。
「しんどくなったら、たまに帰ってくるよ」
僕は独りでつぶやいた。
ボールを滑り台の下に戻して、立ち上がる。ずいぶん遠い寄り道になってしまった。大きくなった僕は一人、買い物袋をぶら下げて、あの日の帰り道を大股で歩いた。
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