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「どうしたんだ、お前」
不意に背後から話しかけられて、振り返りながら見上げると、そこに兄がいた。
「塾から帰ろうとしたら、お前の自転車とグローブ、あそこにあったから」
何やってんだ、帰るぞ。そう言われると思って僕は立ち上がった。
「どうしたんだ。大丈夫か。何か探してるのか」
兄はもう一度問うた。心配して声をかけてくれるとは思っていなかったから、びっくりして、また涙が出てきた。冷たい手のひらに息を吹きかけるように、冷えた心に暖かいものが触れた。
「買ったばっかのC球、友達が蹴ってどっか行っちゃって」
「ここで、ボールを失くしたんだな」
兄の顔は暗くてよく見えなかったが、声は心強かった。泣きじゃくる僕の説明が伝わったのかどうかはわからないが、兄は一緒に探し始めてくれた。ボールは見つかっていなかったが、自分が大切にしているものを同じように大切にしてくれる人がいたことに、僕は涙が出たのだと思う。やはり寒かったが、草をかき分けるのはそれまでほど辛くなかった。
七時まで探して、結局ボールは見つからなかった。兄が帰ろうと言ったから、僕は従った。帰り道、僕たちは黙って自転車を押して帰った。兄は、僕に何があったのかを詳しく聞こうとはしなかった。ただ、僕に背中を見せながら、少し前を歩いていた。ボールは見つからずじまいだったが、僕はその背中を見て歩きながら、妙に安心していたのを覚えている。いつもは生意気なことを言う僕にとっても、やはり彼は唯一の兄なのだと感じたのだ。
兄とともに家に着くと、母親が鬼の形相で待ち構えていた。我が家はそこまでルールに厳しいわけではなかったと思うが、門限は六時だったから、母親は心配して塾や僕の友人の家に電話をかけていた。特に、兄が両親の言いつけを破ることは滅多になかったから、なおさら心配したのだろう。兄は言い逃れることもなく、僕を連れて寄り道をしていたと母に話した。僕は兄に申し訳ない気持ちになった。今考えると、兄は僕が友達と何か揉めたことに気づいていて、言いたくない僕の気持ちを察したのかもしれない。小学生の友達同士の微妙な力関係、手を差し伸べる大人に頼りたくないプライド、少年のほろ苦い心の機微を、兄は分かっていたのだろう。僕はそんな当時の痛みとともに、僕の兄として前を歩くあの背中を今、思い出すのだった。
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