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病院から帰ると、家族はいつもより静かだった。兄も父も、元々口数の多い方ではなかったから、いつもと違うこの静けさは、母の無口によるものだったのだろう。しかし、母は昨晩の動揺にも関わらず、通夜の手続きを粛々と進め、少し遅い昼食に全員分のうどんを作った。誰も口を開かず、黙々と食べていた。
「こんな時まで昼飯作らなくてもよかったのに」
麺をすすりながら僕は言ったが、言ってから、言わなければよかったと思った。母はせわしなくし続けることで、兄の死を考えてしまわないようにしたかったのだろうと、その時気付いたからだ。
「買ってきたり頼んだりすると、やっぱり高いからねえ」
母は無理に笑った。席を立ちすぐに台所の片付けを始める母の背中には、弱々しくちっぽけな、押せば落っこちそうな気丈さが乗っかっているだけだった。
僕は頼まれた買い物がてら、地元を久しぶりに歩くことにした。外の空気を吸う。土日はいつも昼過ぎまで寝て、家で過ごしていたから、こんな時間に実家付近を歩いているのを変な感じだと思った。
僕は実感が湧いていなかった。兄が死んだ。しかし、僕が予想していた悲しみは、僕自身の中にまだ見つけられていなかった。事故と聞いた時には事の重さが一気に頭にのしかかってきて、一刻も早く兄の顔を見なくてはと思った。しかし、その最期に僕を立ち会わせることなく兄が息を引き取ってしまった今、僕にとっては、母が泣き崩れ、疲弊していたことだけが、兄の死の実感であり証明だった。
「兄ちゃんは本当は死んでいないんじゃないか」
言ってみて、おかしくて僕は独りで笑ってしまった。さっき僕は兄の寝顔みたいな顔を見たばかりだったのに。交通事故だって言ったから僕は残酷に歪む兄の顔を見るのだろうと恐怖していたが、顔には傷もなく、穏やかに死んでいた。
兄は死んでいる。兄が死ぬってどういうことなのだろう。僕の生活は変わるのか。変わらない気がする。いや、変わらないのか、そんなわけなくないか。だって、人が死んだのに、僕の兄が死んだのに、僕の生活が変わらないっておかしくないか。しかし、僕にはどうやって変わるのかは全くわからなかった。それくらい、よく見知ったはずの兄は遠い存在になっていた。兄弟だったが、ここ十年の僕の生活に、ほとんど何も関わりを持っていなかったのだった。自分は仕事ばかりしていたんだな、と気づく。
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