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椿を家まで送って百合の待つ邸宅に帰宅した竜胆は、離れにある彼女の部屋へ足を運んだ。
部屋の中に気配があるのを確認し、一声かけてから竜胆は襖を開ける。
「――お嬢様」
「……誰?」
おそらくさっきまで寝ていたのだろう、彼女はややぼんやりとした様子で竜胆を見上げた。
もともと色白であるとはいえ、今日もあまり顔色がいいとは言えない。
ぼんやりとした表情の彼女が、ガラス玉のような“灰色の瞳”で竜胆を見据えた。
直後、表情がきっと引き締まり、彼女の雰囲気が凛としたものとなる。
「……あら、“アオイ”。どうしました」
まるで別人格が浮かび上がってきたかのように。
いや、事実、その通りなのだ。
彼女がその名で竜胆を呼ぶということは、そういうことだ。
アオイは、昔の名前。
今、現在、竜胆は〝アオイ″という名前ではないのだから。
竜胆は枕元にお茶を置いてから、彼女に尋ねる。
「気分はどうですか? 眩暈とか、頭痛とか、だるいとか、ありませんか?」
「今日はいくらか調子がいいです」
そう言って微笑んだ彼女の様子に、竜胆は少しだけ安堵する。
それから竜胆は、今日あった出来事を彼女に語って聞かせる。
言葉を選んで、時には真相を隠しながらも、外の様子を彼女に語る。
最初は竜胆の言葉に聞き入っていた彼女だが、途中からその表情が抜け落ち、再びぼんやりとした表情になる。
「お嬢様……?」
彼女の様子に気が付いた竜胆は、まだ今日も安定しないな、と内心で舌打ちする。
雪が降る季節には、彼女の人格が移り変わりやすくなるのである。
ふいに、ぼんやりとした様子の彼女は眠たげな“灰色”の瞳を瞬かせると、緩慢な動作で竜胆を見上げて呟く。
「夢を見るんです――」
彼女は竜胆から視線をそらすと、灰色の瞳で縁側に接している障子を見据えた。
その姿が、あまりにも透明で儚く見えてきて、目を離したらどこかに消えてしまいそうな、そんな気配を感じて竜胆は息をのむ。
虚ろになったその瞳で、障子を通り越して、外の世界を見つめるているかのように。
ここではない、どこかを見据えているかのように。
こんなに近くにいるのに、翳りを帯びた彼女の姿が急に遠くなったように感じられて。
「――真っ白な世界に」
それはここではない世界。
「鮮やかな赤い色があって」
それは思い出さなくていい出来事。
「白い世界を」
その瞳はもはやこちらを見ていない。
この世界を見ていない。
「赤い色が染めていくんです」
淡々と、淡々と、言葉が紡がれる。
「けど、だんだんと赤い色は、また白く塗りつぶされて」
その手が、肩が、声が、
無意識に、無自覚に、
震えていることにすら気が付かない様子で。
「世界は、また真っ白に――」
見ていることに耐えられなくて、竜胆は彼女の身体を抱きしめた。
彼女を現実に、“こちら側”に引き戻すように。
強く、けれども壊さないように、優しく、そっと。
その華奢で小柄で細くて脆くて頼りない身体を抱きしめる。
「――夢ですよ。それはただの夢です」
言い聞かせるように囁く。
懇願するように呟く。
何も思い出さなくていい。
もう、思い出さなくていい。
もう、忘れてしまっていいことなのに。
だって、もう、
貴女は、あの人たけど、あの人ではないのだから――
「――“アオイ”」
それでも彼女は、もはや何度目になるか数えたくもない言葉を囁くのだ。
――私は一体、誰ですか?
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