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 遊びたいのか、と訊くと犬は嬉しそうな甲高い声を上げた。男は黙ってボールの感触を確かめた後、握り直して遠くのほうに投げた。 犬が柔らかい砂を豪快に蹴り上げてボールを追いかけていく。  勢いあまってボールよりも前に出た犬は、後ろ足で急ブレーキをかけ軌道修正すると大きく身を翻してボールをキャッチした。犬は無垢な表情で飼い主の元へ戻ってきた。  それから、咥えていたボールを足元へ置くとハッハッと乱れた息を吐きながら男の顔を丁寧に舐めた。伝わってくるぬくもり。男は愛犬のつぶらな目を見て、目頭を押さえた。ただ側にいる事が男にとって何よりの優しさだった。  ゴールデンレトリバー特有の垂れた耳の下に手を入れ撫でながら、男は疲れた笑顔を向けた。ポケットから小さな四角いジュエリーケースを取り出した。渡せずじまいの婚約指輪だ。男は神妙な顔つきで己に言い聞かせるように呟いた。 「過去を断ち切るには、こうするのが一番早い」  この指輪を捨てる事が未来への一歩になると信じて男は指輪の入ったケースを海に向かって投げた。同時に犬が駆け出した。躊躇なく海に飛び込んでいくと、巧みに泳ぎ投げたケースを咥えて戻ってきた。 「拾ってきたら駄目なんだ。わかるか?」  犬はワンと吠えた。 「いいな。次は飛び込むなよ」  それから男はもう一度同じ事を繰り返したが、再び愛犬は海に飛び込んだ。そしてびしょ濡れの体で尻尾を振りながら戻ってきた。  結局、ケースから指輪を取り出しそれだけを投げ捨てた。流石に犬は飛び込まなかった。  捨てた指輪を愛犬が遊んでいると勘違いし二度も拾ってくる。なんとも情け無くはあったものの、三度捨てる事で気持ちが晴れた。  男は沈みゆく夕日を背に親愛なる愛犬とその場を後にした。真っ直ぐに前だけを向いて振り返る事はしなかった。
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