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ハミング
光の三原色
三つ合わせたら真っ白け
耳当て越しに、君のハミング。
思わず振り返ると、視界に薄っぺらな日常が流れ込む。
白く霞がかった、退屈な日常。
─
冬は、好きだ。
厚着のうえからも肌を切りつけるような、厳しい冬が。
誰にでも等しく冷たい冬が。
何となく、街も人もよそよそしくて。
それが不思議とここちよい。
親しくなって傷つくなら最初から近づかない方が良いよね。
なんて、センチな気分にもなってしまう。
季節も季節、致し方なし。
そんな思考を反芻しながら大通りを行く。と、
「あれ、佐原くん?」
落ち着いた声調の、それでいて少し驚きを含んだ声が近くでひびいた。
どうやら向かいからやってきた顔見知りに気付くことなく通り過ぎかけたらしい。
ごめんよ、この道は上り坂だったし、何より僕は常に前に横たわる地面しか見ていない。
振り返り、視線を少し下にずらすと見覚えのある笑顔がこちらを向いていた。
ええと、確か。
「コウノさん」
正解だったようだ。ただでさえ細められた目じりが引き下げられ、三日月のようになる。
「覚えられてたラッキー」
「まぁ、この前会ったばかりだし」
漢字も知らないけど。
「この近所に住んでるの?」
「いや、よく行く古本屋が近くにあるんだ」
そう言って、つと彼女の服装に目を遣った。
控えめな色調が季節にとても合っている。
茶色いムートンブーツ。
視線を引き戻すも、何となく視線を合わせられずに髪に目をやる。
ほんのりと茶色を帯びた髪は染めているのか地毛なのか。
ディズニーとか好きそうだな。
なんてあほらしい推論が湧いてくる。
「その本、『砂の女』だよね」
「阿部公房知ってるんだ」
「ま、ね。『壁』しか読んだことないけど」
それ以上話を膨らませる気はないようだ。
いや、こちらの興味が俄然湧いてきてしまったよ。
「じゃあまた」
会話を打ち切られてしまった。
名残惜しい気もするが、こんな往来で語り合う気もしない。
「じゃあね」
別れ際、彼女はハンドバッグからかわいらしいブックカバーの付いた文庫本を取り出して、いたずらがばれた子供のような表情をした。
─
じゃあまた。
騒音の中で聴こえるハミングのように。
─
また彼女に会えると良いな。
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