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01
そのプラチナは、もうすっかり冷たくなってしまった外の空気と共鳴しているかのような静謐さを宿していた。
左手の薬指に、ゆっくりと冷たい輪がすべっていく。まさか自分の人生で、ここに指輪をはめてくれる相手が男になるなんて、夢にも思わなかった。
「誕生日おめでとう、リゼ」
恋人の月ヶ瀬馨は、跪くとその指にそっとくちづけを落とした。彼の体温が移った指輪は、命が吹きこまれたようにあたたかくなる。しかし、予想外のプレゼントにとまどいを隠すことができない。それでもぎこちなく礼を述べる。
「ありがとうございます、馨さん。でも」
「きみが言おうとしていることはわかるよ。これは僕のわがままを押しつけているだけだ。きみが僕のものであることに安心していたいだけ。だから僕といっしょにいるときだけ着けてくれればいい」
「ううん、言いたいのはそんなことじゃなくて」
しかし口をつぐんでしまったのは、この感情があまりにも幼いとわかっていたせいだ。きっとこのひとは、そんなところも受け容れて赦してくれるだろう。それでも背伸びして、すこしでも年齢の差を埋めることができたらいいと思った。
嬉しいです、の言葉を最後まで待たずに、くちびるを塞がれる。さっきまで彼が飲んでいたロゼワインの香りがした。せっかく二十歳になったのだからと自分もすすめられて飲んだが、胃の底に火がともるような感覚におどろいてすぐにグラスを置いたばかりだ。
「じつは僕もアルコールが苦手だったんだよ。きみに出逢うまで」
「俺に出逢うまで、って」
「そうだね。会えない日の寂しさをまぎらわせるために、すこしだけ頼った日があった」
彼に初めて会ったときからずっと、自分はからかわれているだけだと思っていた。だが彼の想いの深さを知ったのは、それからずっとずっと後になってからのことだ。
だからそれに応える。彼にすっかり引きこまれてしまったのはいつだっただろうか。合わさったくちびるをすこし離して、こんどは自分からゆっくり重ねた。
「リゼ。酔っている?」
「でも、ひとくちしか」
「そうだね。でも、吐息が熱かったから」
もういちどくちづけられて、指輪をはめられたばかりの左手を握られた。ゆっくりとくちびるをかき分けてくる舌。彼は彼の熱を持っている。熱の先をすり合わせると、まるで互いが想いを主張しあっているかのようだ。
がら空きの右手で、彼のシャツの裾を掴んだ。くちづけだけで足腰が立たなくなってしまう自分は、やはりいつまでたっても経験不足の子どものままだ。彼はいつだって「かわいい」なんて言ってよろこんでくれるけれど。それが到底褒め言葉には聞こえず、嬉しくなかったのも、最初のうちだけだ。
「どうしたの? リゼ」
そんなの、彼自身がいちばんわかっているくせに。でもそれはきっと意地悪などではなく、相手がほんとうにどうしたいのかを気遣ってくれるやさしさであることも、最近になってようやく知った。
だから、やさしさには応えたい。まだ上手につたえられないけれど、それでも眼鏡の奥の瞳をまっすぐに見据えて、ゆっくりと告げる。
「馨さんに、抱かれたい。だめ、ですか」
首筋に、鼻頭が押し当てられる。彼もまた、昂ぶっているのだとわかる。
「僕がきみのお願いを聞かなかったことなんて、いちどもないだろう」
月ヶ瀬のベッドは広く、シーツが背中にひんやりと当たるが、体温が移るころには身体が心地よく沈んでいくのがわかる。
彼は互いの両手指を絡めて身体を繋げるのが好きだった。手の甲をシーツに押しつけられながら、腿の内側を彼の胴体にこすりつける。間接照明は部屋のはるか隅にあるため、顔はよく見えない。だが、おりてくる匂いはよくわかる。香水と、それから彼自身の匂い。
ゆったりとした腰づかい。ほかの男なんて知るはずがないから、自分にとって男に抱かれる感覚というのはこうだ。それでも、終わりが近づくにつれ性急になっていく、快楽をともなう息苦しさも知っている。自分自身のなかに好きな相手を直接感じられる。愛しくて、嬉しくて、それでいてどこかもどかしい。
「っ……、きついね」
声音から、彼がすこし顔をゆがめたのがわかった。それでもまず彼が心配してくれるのは、目の前にいる自分のことだ。
「だいじょうぶ? 僕はきみに無理をさせていないかな」
「平気です、だから、もっと」
きゅっと両手を握りこまれる。あれだけ違和感のあった左手の薬指にはまった金属は、いつのまにかすっかりそこになじんでいるように感じられた。そこで、彼の指にもまた、おなじように指輪がついていることに気づいた。右手をやわやわと閉じたり開いたりしながら、なんども確かめる。
「いいよ。きみが望むものを、なんでもあげよう」
ひときわおおきく突き入れられながら、「なんでも言ってごらん」とささやかれる。しかし、懸命に首を横に振った。
「俺は、馨さんがいてくれれば、いい」
もういちど突き入れられて、弓のようにのけぞった。ずくん、と体の中心から末端まで、すべてを痺れさせられる。
「そんなことを言われたら、もうきみのことを手放せなくなる」
「俺のこと、こんなにしといて、手放したら許さない、から」
「そうだね」
また、首筋に鼻頭を押し当てられる。ゆっくりと呼気を吸いこんで、吐き出す。それはまるでため息のようにも聞こえた。
「もう、愛するひとに許されないのはつらいからね」
それからなにかを言う前に、追い立てるように揺さぶられて、かすれる意識を手放しかけた。
もう、って、なんだろう。
目の前で横たわる裸の胸に、左手を置く。そこについている指輪をなんども右手でさわる。それがもどかしいとでも言いたげに、ぎゅっと抱きこまれた。
「好きだよ。リゼ」
いつもならば、その台詞に照れながらなにか返してみせるのだけど。
「馨さんは、昔好きなひとに許されなかったことがあるの」
月ヶ瀬は表情ひとつ変えないで、「あるよ」とつぶやいた。
「それは、どんなひとだったの」
「きみに似たひとかな」
そのとき、胸につーんとした痛みのような、冷たさのようなものが走るのを感じた。彼は自分より九年も多く生きているのだ。過去にいろいろあって当然で、それもわかった上で彼の手を取ったけれど。
「そのひとに似てるから、俺のこと好きになったの」
ふと、自分はそのひとの代替品としてあつかわれているのではないかと思ってしまったのだ。そんなはずはないと、わかっている。しかしそう訊いてしまったのは、自分自身が持つ幼い感情ゆえだ。
「そんなことはない。きみがどんなひとであろうと、僕はきみに惹かれていたと思う」
だからそのひとことで、安易にほっとしてしまう。その言葉、ぜったいに忘れないで。その意味をこめて、彼の身体を抱きしめ返した。
十一月になったばかりの空気のなか、貪る人肌は心地よい。息をつけば、彼の肌の上で香りをともなって返ってくるよろこび。好き。好きだ。いつまでもここに縛りつけられていたらいいのに。
「おやすみ、リゼ」
おやすみなさい。過去になにがあったとしても、これから先は、ずっとあなたのそばにいる。
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