10

1/1
44人が本棚に入れています
本棚に追加
/12ページ

10

満足でもしたのか。あるいは単純に飽きたか。 いずれにしても平穏がもどってきたことに間違いはないようだ。毎日端末のバッテリーが切れるほどうるさかった着信は、あの日以来ぴたりとやんだ。執着されなくなることに安堵をおぼえるのは、生まれて初めてだ。 とくに拠り所とされたいわけではなかったが、これまで相手を自分のもとへ縛りつけておくことを好んでいたように思う。今回はそれが最悪の結果を呼んだ。昔の恋人にも、いまの恋人にも。 いつも夜になると受信する穂希のメールを、毎日楽しみにしていた。送られてくる時間はだいたい決まっていて、遅れるとすこし不安になった。今週は十分、三十分、一時間と待ってみたが、いちども送られてくることはなかった。だれかと連絡をとるためにあるはずのツールは、いまはただ天気予報を見るためだけのつまらない機械になってしまった。 穂希はまたふらふらと歩いては、ささいな段差で転びそうになっているのではないだろうか。ぼんやり考えごとをしては、見知らぬひとに声をかけられてはいないだろうか。心配する権利は、きっと自分にはない。泥のなかを泳ぐような一週間だった。遅々として進まない仕事。味がしないせいで減らない食事。シャワーを浴びているときだけ、治りかけた胸の傷に瘙痒感が走って、そういえば生きていたとわざとらしく思い出す。いけないと思いつつも、傷口を爪の先でめくった。痕になるだろうか。 なにが正しくてなにが間違っているかわからなかったから、穂希に会って謝らなければならない気がしていた。 ようやくやってきた土曜、車を走らせる。会ったらなにから話そう。しかし、いまの自分はなにが正しくてなにが間違っているかわからない。 店のドアをくぐると、めずらしくほかの店員が出迎えてくれた。彼はこちらを見ると接客用の笑顔を投げかけ、螺旋階段をいっしょにあがってくれる。彼は終始朗らかなはずだったが、長い長い処刑台をのぼっているような気分になった。 いつもの席にはべつの客が座っていた。そのとなりに案内され、メニューを渡される。紅茶の名前を視線でなぞるふりをしながら、穂希を探した。狭い店内で彼はすぐに見つかった。カウンターの奥でケトルを握り、紅茶を淹れているようだった。 時折、ほかの店員に声をかけられては、談笑しているのが見えた。よかった、元気そうだ。それだけで気持ちはずいぶん楽になったが、同時に己の判断ミスを悔いることになった。やはり、今日ここに来るべきではなかったのだ。彼はこうして元気なまま、もとどおりの日常を送るべきだ。自分なんかに出逢ってしまうより前の日常にもどることができるなら、それがいいに決まっている。 視線を落とすと、紅茶の一覧のなかに『正山小種』の文字を見つけた。ラプサンスーチョン。こんなところにあったのか。いままでメニュー表などろくに見ないで注文していた。いつもこの名前を告げれば、彼は「やっぱり」とでも言いたげな顔をして、それでも嬉しそうに伝票に書き留めてくれた。もういちどその顔が見たいというのは、間違いなくわがままだ。 「お決まりですか、お客さま」 それでも顔を上げれば、目の前に穂希が立っていた。まるで、なにごともなかったかのように笑っていた。それどころか、そこに座る男とは初対面であるかのような距離を感じた。それでいいと思った。彼のそんな心づもりがわかっただけでもありがたくて、すこしだけ救われた。 このままゆっくりと、他人にもどろう。 「ラプサンスーチョンを。それと」 ばれないようにため息をついて、テーブルの上で組んだ両手の指を握りなおす。 「僕の家のカードキーを返してほしい」 彼の握るボールペンの先が、伝票の上を思いきりすべる。細い首が、壊れた人形のようにかくんと曲がった。 「それを、いまおっしゃるんですね」 「ああ。きっともう、いましかない」 「すごい。まるで俺が、あなたに突き返すタイミングを狙っていたことを知っていたみたい」 まるで魔法のように、彼の制服の胸ポケットからカードキーが出てきた。細くて白い指が、それを挟んでテーブルの上に音もなく置いてくれる。しかし、指が離れたあと、それを拾って自分のポケットにもどすには勇気が必要だった。 彼は笑っていた。ちらりと見えた伝票には、ラプサンスーチョンの文字が記されていた。だから最後にここで、良い思い出だけを残して別れることができると思っていた。 おずおずと、カードキーをしまおうとした。そして耳元で破裂音がしたのはあまりにも突然で、頬に痛みを感じたのは、眼鏡がずれて視界がぼやけたあとのように感じた。 静まり返った店内で、自分たちはさまざまな視線を向けられていた。張られた頬をおさえるよりも先に、眼鏡を定位置にもどした。レンズの向こうで、穂希がなおも笑っていた。 どんな気持ちでそうしているのか想像がつくはずもない。わかるはずもない。天使の気持ちなんて。 しかし、自分はかつてそれを、必死に理解したがっていた。 「ごめんなさい。帰ってください」 気づいていた。最初から目もあわせてくれていなかったことくらい。 そういえばここには、彼に謝るために来たような気がする。それが最善でなくとも、謝りさえすれば、自分の気はすんだのだろうか。 こんな気分であの紅茶を飲まなくて、むしろよかった。伝票はカウンターの奥で、半分にちぎられていた。
/12ページ

最初のコメントを投稿しよう!