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罰をあたえたはずの彼のほうが、罰を受けたと知ったのはいつだっただろう。 狭い街とはいえ、この現代の世の中で風の噂なんてのもばかばかしいから、おそらくは自分の耳で直接聞いたのだ。あのあと、懲りもしないで毎週あの店をおとずれていた。当然のように、彼はもういなかった。店員のどんなちいさなお喋りも、ひどく気になった。 どうしようもなかったが、彼がいつも淹れてくれていた紅茶を注文しつづけた。煙たい香りとともに、喪失感がひたすらに積み重なった。そうしているうちに、日が長くなり、花が蕾を結ぶようになる。彼と出逢ったころを思い出してしまう。だれかに知られているわけでもないのに、センチメンタルになることが恥ずかしくて、ただ心に砂嵐を吹かせることでごまかした。 ティーカップは、こうやって指をそろえて、ハンドルをつかむんです。指を入れちゃだめ。あ、いいですね。とってもきれいです。 いつだったか、自分の作法に疑問を持ち、穂希に質問したことがあった。予想外の回答が返ってきて困惑したが、それ以来ティーカップを持つ自分の手を眺める彼の表情がこころなしか楽しそうに見えた。今日も教えてもらったとおりに指をそろえてハンドルを持ち、本体をゆっくりとソーサーの上に重ねる。底が見えるようになった真っ白なティーカップは、空虚な音を響かせた。以前はポットの中身が空になってもいつまでもここにいられたが、いまはなんだかもうすぐに帰ったほうがいいような気がしていた。 テーブルに伏せられている伝票をつまむ。するとその日はもう一枚、下に紙切れが隠れていた。ふしぎに思ったが、それはけしてほかのだれかに見られてはならないものだと直感した。こっそり裏返し、ボールペンの走り書きを見て、深く息をついた。だれかが自分に、最後の償いをうながしていた。 スマートフォンの地図が指ししめすポインタは曖昧で、ここであっているのかという不安はたしかにあった。あまりにもちいさな店構えのバー。むしろはずれていてくれれば、どんなに気が楽だろう。 春とはいえ、日の入り前はまだ風が冷たかった。スプリングコートの内側に入りこんでくる空気に耐えられず、ドアを開けた。そんなことを理由にでもしなければ、きっと永遠にここに立ち尽くしていただろう。 カウンターの内側に、ほんとうに彼はいた。黒いカマーベストは身体の細さを強調させるように、そのラインをなぞっている。振り向いた彼は一瞬目を見開いて、それから驚きも騒ぎもせずに、静かに笑った。 「なにか、御用でしょうか。月ヶ瀬さん」 コートを脱ぎ、わざとカウンターの真ん中の席を選んで座る。ここならきっと、彼に逃げられることなく話ができる。どのみち、店内に客なんて自分以外にいなかったけれど。 「なにか御用、とはご挨拶だ」 「ほかに適切な言葉が見つかりませんでしたので。そもそも、あなたにこの店の場所を教えましたっけ」 「わかるよ。きみのことならなんでも」 棘だらけの言葉を投げつけられる代わりに、嘘を差し出す。結局最後まで、彼のことは理解できなかった。彼がきっと、こちらのことを理解できなかったのとおなじように。当たり前だ。彼がほんとうの意味での初恋だなんて、恥ずかしくて言えたものではないから、なにもかもをずっと隠してきた。 なにか飲みますか。形式的な質問。ノンアルコールでおまかせ。機械的な返事。やがて紅茶ベースのノンアルコールカクテルが目の前に置かれて、ようやく対等な場がととのった。 「あいかわらず、お酒はたしなまないんですね」 「べつに飲めないというわけではないけどね。なんとなく、あの胃袋に火がともる感覚に耐えられない」 トールグラスの中身をストローでかきまぜると、氷が派手な音をたてた。ひとくち吸うと、紅茶とカシスシロップの香りが鼻から抜ける。美味しいね、なんて感想を言いたかったが、それではここに来た目的を見失ってしまいそうだった。 「今日はね、きみに謝りに来たんだ」 「謝られるようなこと、されましたっけ」 「ひどいな。そうやって全部なかったことにするつもりだ。僕は謝ることすら許されないのかい」 「あなたこそひどいひとだ。許すか許さないかの選択を、俺に押しつけるんですね」 カウンターの向こうの彼をじっと見る。ようやく目をあわせてくれた彼は、どちらかというと憎悪の眼差しでこちらを睨んでいた。当然だと思った。きっと彼は自分なんかに出逢わなかったら、こんな目をすることなくおだやかに生きていただろう。 視線を手元に落とした。彼ももう、こちらを見ていないことがわかった。グラスを磨く音が聞こえはじめたからだ。 「べつに許してくれなくたっていい。僕がきみを傷つけたことは事実だ」 「許さないなんてことはしたくない。嫌いの感情のせいで脳内にしつこくあなたの存在が居座りつづけるのは、あまりにもいやです」 「それじゃあ、許してくれるのかな。そういうわけでもないだろう」 彼はなにも答えなかった。それは無視にも近く、ただちいさな吐息だけが漏れた。こちらにわからないよう、ため息をついているようだった。視線をもどしてどきりとする。ああ、この顔だ。この顔に、なんども理性をうしないそうになった。すべて、わかっているのだとしたら。 「あいかわらず、天使みたいな顔をして相当な小悪魔だね、きみは」 「その言い方、まるで俺があなたのことを手のひらで転がしているみたい」 「そう感じたけどね。これじゃあ、僕ひとりが気持ちの整理をつけられないまま、きみにすがりつかなければならなくなる」 「気持ちの整理ですか。あなたなら、とっくについていると思ってましたけど」 声音はやさしいままで、つぎつぎに棘を突き刺してくる。痛いところばかりを狙ってくるのは、急所をすべて知っているからだ。薄めてあるはずの炭酸水が、妙に舌に痛い。しびれる感覚が、はじけては消えていく。 「穂希」 名前を呼ぶと、彼が身構えたのがわかった。クロスの音がやみ、やがて再開する。それがふたたび静かになるのを待って、重く、深く、吐き出した。 「すまなかった」 彼は手にしていたグラスを、棚にもどした。落として割ってしまわないようにと、慎重にもどした。それからこちらにしっかりと向き直ってくれた。しかし発せられたのは、嘲りに近い笑い声だった。 「へんに素直だ。おなじ言葉、あと百回聞かせてくれたら」 「いいよ。なんどでも」 「なんてね、嘘。いざ実際に言われてみると、ひどくみじめだ」 穂希。悲しみに顔をゆがめる彼の名前を、もはや呼ぶ権利すらないように思えた。カウンターはけして越えることのできないおおきな隔たりで、越えようとこころみることすら許されない壁だった。 天使は長い睫毛を揺らしてまばたきする。絶対にとどかない場所から、こちらを見ている。自分がその手を離してしまったせいで、もう二度と触れることのできない場所から。 「だから、いろいろ言いましたけど、いいんですよ、もう。ほんとうは、とっくにあなたを許している。だって」 「僕がしたこともそうだが、いまはそんなことを言っているんじゃない」 彼の言葉を慌ててさえぎった。 「きみはあの場所に、もっといたかったんじゃないかと思って」 どういう経緯で彼があの店を去ることになったかまではわからない。だが、彼があの場所にいられなくなったことは、間違いなく自分が原因だ。罰を受けるのは自分だけでよかったはずだった。もう取り返しはつかない。自分に出逢う前の彼にもどって、そのまま日常を送ってほしいなんてことは言えないのだ。 いいえ、と彼は両手を振った。無理をしながら笑っていることはすぐにわかった。それでもなお、強がってみせる。 「俺にはもう、この店がありますから。この店も素敵なんですよ。オーナーがとてもよくしてくださるし」 これは勘でしかないが、いまはそのオーナーに愛されて幸せにやっているのではないかと思った。この店やオーナーに対する畏敬の念のようなものが感じられ、それがなんとなく声色のはしばしにあらわれていた。 「馨さん」 はっとした自分は、ひどく間抜けな顔をしていた気がした。それは、そう呼びかけてくれた彼に対して、返してやれる言葉をなにひとつ持ち合わせていなかったせいだ。 「ごめんなさいね、馨さん。久しぶりに会ったらちょっと意地悪したくなってしまって、あんなことを言ったけれど」 どうしてこんなにも、屈託のない笑顔を向けることができるのだろうか。 「全部、なにもかもを含めて、俺はあなたを許すことにします」 だから、だから。 「馨さんは馨さんの幸せを探すべきです。たとえひどい別れかたをした相手でも、いちどは俺が好きになった相手なんですから、ちゃんと幸せになってほしい。お願いです。俺のこのひそかな願望が、ただの憎しみになる前に、ここを出て行ってください」 口元に笑みを残したままなのに、澄んだまるい目からは、涙があふれて流れる。泣き顔すら見惚れるほどにきれいで、こんなにも美しい涙がこの世に存在したのだと知ることで、自分の罪の重さを再認識した。自分のような男によって流させてはいけないのだ。 「わかった。これを飲んだら出よう」 ストローに口をつける。そして底のほうからゆっくり、ゆっくりと吸い上げた。炭酸がいちいち舌に刺さるおかげで、一気に飲んでしまわなくてすんだ。名残惜しいというのが、正直な気持ちだった。それでも飲み終えるまでに時間がかかると、そのあいだすこし気まずくなる。言わなくてもいいことを、つい口走ってしまう。 「泣き顔まで天使みたいだ。こんな状況なのに、誘われているのかと勘違いすらしてしまう」 「だれが、あなたなんかを」 「そうだね。きみひとり幸せにしてやれなかった僕なんかを」 それは、彼の前で初めて吐いた弱音かもしれなかった。わずかに動揺した彼を、わざと見逃す。こんなことで、こころ動かされたりなんてしないでほしかった。 「馨さん。ひとつだけ約束してください」 「いいよ。きみには、約束ごとで僕を縛りつける権利がある」 そして彼だけは、つぎの空へ自由に飛び立っていってほしい。それをここから見ているから。きみに縛りつけられたままで、見ているから。 「つぎにあなたが好きになったひとには、俺のような思いをさせないで。ぜったいにそのひとを裏切らないで。悲しませないで」 カウンターの向こうから、小指を立てた手が差し出される。これに触れてもいいのか。ためらいつつも、自分の小指を絡ませた。細くて折れてしまいそうで、なめらかな指。最後だ。 「僕も、ひとつだけ」 「なんでしょう」 「あの日、きみが僕につぎの機会をあたえてくれた理由を、まだ聞いていない」 初めて彼を連れ出した日。勝手にくちびるを重ねたことに彼はたしかに傷ついたと言った。それでもつぎに会う約束をくれて、そうしてくれる理由は、傷が癒えたら話すと言った。それをまだ聞いていなかった。 説明せずとも、彼は「あれね」とうなずいて、まぶたを伏せた。たまっていた涙が押し出されて、また頬に流れた。 「初めて会ったときから、あなたのこと好きでした。また会ってなんて言ったのは、そう言わなかったら、もう二度と店にも来てくれない気がしたからです。食事に誘ってもらって嬉しかった。でも、キスまでされたのに、あんなに消極的な態度をとられたら傷つくでしょ」 そうだね、僕だったらいやかな、そんな男。自嘲の言葉を吐いた途端、小指がふっとほどけて離れた。 「きみは、また僕につぎをくれた。こんどこそ、かならず幸せにしてみせるよ。でも僕はきっと、つぎもきみに似た相手を好きになるんだと思う」 約束をしてしまった。許すなんて言われたが、結局自分は許されてはいない。きっと死ぬまで縛られつづけて、なんども彼のことを思い出すのだろう。 だからここで誓うことにする。彼が許してくれたつぎの相手で、最後の恋にする。 グラスの中身が氷だけになる。コートを羽織り、千円札をそっとカウンターに置いた。財布のなかには、嫌味のように新札しか入っていなかった。 「穂希。さようなら」 店の外は、新芽の香りであふれていた。359c23b7-f3c2-4904-bf9c-708b0c03bf4f
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