07

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穂希。店のドアをくぐってちいさく名前を呼ぶ。そろそろ来てくれると思った、なんて彼が口にするはずなかったが、その笑顔がそう語ってくれていると思うくらいは許されるだろう。 いらっしゃいませ、月ヶ瀬さま。わかっている。ここでは自分はただの客なのだから、呼び方がいちいちよそよそしくなるのは当たり前だ。それでも彼が淹れてくれる紅茶は、以前よりもずっと特別に感じられた。 紅茶の香りがするたびに、あたらしい思い出が自分自身にきざまれていく。目があった瞬間にくれた微笑みも、彼がふとしゃがんだときに見えた黒いベルトも、踵を返した瞬間に揺れた髪の毛の動きも。 自分は以前となにも変わっていないつもりでいたが、次第にほかの従業員が自分たちの関係を怪訝に思いはじめたようだった。視線でわかった。おそらく浮かれていることが、態度のはしばしにあらわれていたに違いなかった。それでも、若さゆえの浅はかさで、溺れることができるだけ彼に溺れた。自分自身も彼の手を取り、より深いところまで引きずりこむことに熱中した。残念なことにそこはひどく混濁していたから、彼までもが溺れてくれていたかどうかはわからなかったけれど。 「それでは、ごゆっくり」 彼が下がる直前、以前よりもすこしだけ長く絡むようになった視線。みずからのワイシャツの袖を見ると、ついこのあいだまでロールアップしていたそれは、いつのまにかカフスボタンをとめるようになっていた。店内の空調もおだやかになっていて、窓から見える景色もすべてがスローテンポに見える。 秋が来ている。季節の移ろう短い時間には、そのときだけにしか感じられない香りがして好きだった。それはこの窓辺にいてさえ感じられた。それを彼にも知ってほしくて、遠ざかろうとする背中を無意味に呼び止めた。 なんですか。やわらかな声は、肌に心地よい温度の空気をふるわせて耳までとどく。自分はごくありふれた幸せのなかにいて、幸せというものは結局陳腐なくらいでちょうどいいのだと知る。 すまない、なんでもないよ。テーブルに肘をつき、自然とこぼれる笑みを向ける。どうせ言葉なんて、夜が来ればいくらでも交わすことができる。テーブルを挟んででも、ソファの上でも、ベッドの上でも。 ふたたび背を向けた彼が、奥に消えるのを見送った。それを見計らったかのように、私用のスマートフォンがふるえた。 それはやけに長く、やや苛立ちをおぼえるほどにしつこく呼び出しをつづけていた。しかし、ここに座っているあいだは、けしてそれを取り出さないと以前から決めていた。日常から切り離されたようなこの空間に、だれかと連絡を取り合うツールはふさわしくないと思っていたのだ。 しばらくしてようやく静かになったスマートフォンを、ポケットからかばんのなかに移動させる。捨てるようにして、すこし乱暴に放り入れると、それは怒ったようにまたふるえはじめた。かばんのファスナーを真横に引いて、床の荷物かごにもどす。するとふたたび静かになったので、忘れて残りの紅茶を飲んだ。 それでもすこしいやな予感がして、その日はポットの中身をすべて飲みきるなり店を出てしまった。このあと、また連絡するから。ほかの従業員に聞こえないよう、白い制服の恋人にささやくと、玄関のドアにぶらさげられているベルを荒々しく鳴らした。 かばんに押しこめていたスマートフォンを取り出して、さすがにぞっとした。着信履歴は、未登録の電話番号で埋め尽くされていた。 私用のスマートフォンで、チャットアプリをつかってだれかと連絡を取り合うことはない。むやみやたらに相手との距離感が近く、おまけに挙動を逐一監視されているようで落ち着かないからだ。だからかならず、電話かメールを用いるようにしていた。おそらく、それが災いした。 過去、安易に電話番号をだれかに教えてしまったに違いない。しかしそれならば、自分もこの番号を知っているはずだ。かつてメモリに登録されていた可能性はある。しかし、なにかのきっかけで消去してしまったのだ。果たして、と考えると、心当たりがありすぎて情けなくなった。ゆるい坂道をくだりながらひとりで眉根を寄せていると、手のなかの精密機械が駄目押しのようにふるえた。 面倒ごとを処理する気分で、通話ボタンを押す。月ヶ瀬です。名乗ってみる。きっと相手は、そんなこと知っているだろうけれど。 『馨さん。やっと出てくれた。ボクがだれだか、わかりますか』 電話越しの声は、ほんとうの声ではないという。機械が似せた声をつくって、相手にとどけているのだそうだ。だとしたら、よくこんな特徴的な声をわざわざつくってくれたものだと思う。声変わりの時期をとうに過ぎたにしては妙に高く、それでいて鼻にかかったそれを、自分はたしかに知っていた。 「さあ。電話をかけておいて名乗らない、礼儀を知らないような子が、僕の知り合いにいたかな」 『ほら、ひどいよね。あれだけボクで派手に遊んでおいて。捨てたら着信拒否にもしないんだ。ボクなんて最初からいなかったみたいな顔をして』 「そういうところがいやになって、きみと別れたんだけどね。マコ」 用がないなら切るよ。いつもより早足でれんがの道を踏んでいく。大通りとぶつかる角のコンビニ前から煙草の臭いが流れてきて、思わず手の甲で鼻を覆った。 『とんでもない。今日はね、デートのお誘い』 眉毛がちいさく跳ねるのがわかった。あえて歩みを止めないまま、だまっている。返事を待たない彼の声は、雑踏のなかでもよく響く。 『ほんとうは以前みたいにドライブに連れて行ってもらいたいけど、今日は馨さんの家でいっぱいかわいがってもらいたい気分』 図々しさはあいかわらずだった。しかし、誘いとはほど遠い、強要にも似たこの申し出を、図々しいのひとことで片づけてしまうのにはすこし違和感があった。きっと、こちらがなにを言ったところで聞く耳を持たないだろう。それでもきっぱり断った。すぐに通話を終わらせてすべてをなかったことにしてもよかったが、そうすることは危険であるかのように感じられた。 『ボクがまだあなたに未練があることを知ってるよね。でも、最近になってようやく忘れられそうなの。すごくいいひとに声をかけられてるんだ。だから最後に、ちゃーんとお別れしませんか』 「それならこの電話でじゅうぶんだろう。いろいろすまなかったね。幸せになってほしい」 『馨さんの謝罪って、なーんか重みがないの』 そのとおりだ。いまのは彼に対するほんとうの気持ちではない。しかし、時折相手に傲岸不遜で慇懃無礼な接し方をすることがたしかにあって、なんだか痛いところを突かれた気分でだまりこんでしまった。 『そのひとって、ボクのことすごく好きみたい。忘れられないひとがいるからって言うと、悲しそうな顔をされた。でも忘れることができたらつきあってあげるって言ったら、ころっと嬉しそうにして。そのためならなんでもしてくれるって』 「じゃあすぐに、そのひとの愛でもなんでも、貪るだけ貪ればいい。そのほうが手っ取り早く僕のことを忘れられるはずだ」 『馨さんって、そんな察しの悪いひとだったかなあ』 相手のため息が、びりびりと耳障りなノイズとなってスピーカーからあふれ出した。坂道をくだりつづける。車を駐めた場所からはるかに離れてしまったような気がする。革靴の底をアスファルトに叩きつけ、乾いた音を拾いながら進む。雑踏からは、いろいろなものが混ざった匂いがした。 そういえばきみは、結論を後回しにして話す子だったね。もはや皮肉にもならない言葉に、電話の向こうの彼は笑っていた。ボクのこと、よく覚えてくれてるね。嬉しいな。だからあなたのことが忘れられないの。 『だから馨さんのことはなんでも知ってる。あの子、すごくかわいいね』 一瞬、なにを言われたのかわかりかねた。しかし、目の前からやってくる男性の肩をぶつからないようにかわしたとき、ようやく彼が穂希の話をしているのだと気づいた。 『びっくりした? でもボク、馨さんのお気に入りは全部順番に言えるの。もちろん、ボク以降のしかわからないけどさ』 去年の夏が茶髪で背の高い子。秋は髪の毛が長くていつも赤い服ばかり着てた子。冬になるとちょっとぱっとしなかったけどきれいな子。年が明けてからはすこし遠距離まで車を走らせてたよね。 『でもボクもびっくりしたの。いまの子はすごく大切そうにされてるし、馨さん自身浮かれてる。どうして? あの子が特別きれいだからかな』 こんどこそ通話を終了しようとした。そして、彼の望みどおりに着信拒否に設定してやろうとした。昔、ブレンドの配合を失敗したエッセンシャルオイルの香りを思いきり吸いこんだときと似た気分になった。胃袋が痙攣する。汗がにじむ。そういえばまだ日中は暑くて、太陽の日差しは肌にわずらわしい。もう切るよ。平静をとりつくろう呼吸を、「待ってよ」の声が止めた。 『そこで、ボクのためになんでもしてくれるひとの話にもどるんだから』 ただ愚問を投げて、結論を聞くことを先延ばしにするしかできない。そのひとはきみのために、なにをしてくれるんだ。 『だから、なんでも』 馨さんはもっと聡いひとだったはずだけど。ボクの口から言わせちゃうんだね。あーあ、ひどいなあ。昔は言わなくたってなんでもしてくれたのにな。どうせ捨てた恋人なんてそんなもんだよね。 『あの子が怪我するところなんて、見たくないでしょ』 ましてやあの綺麗な顔に、ね。でも、どうせまた捨てちゃうんだからどうでもいいかな。ねえ、馨さん、聞いてる? もしもし、もしもーし。
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