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部屋にあげてやると、彼は靴を乱雑に脱ぎ、そのちいさな頭蓋骨に不釣り合いなサイズの黒いキャスケットも床に落とした。昔買いあたえてやった服を、当てつけのように着ていた。我が物顔でソファの真ん中を陣取り、細い足首をぶらぶらさせる。きっと嫌悪という感情をとおしていなければ、見てくれのきれいなお人形さんのようなのだろう。 「久しぶりだなあ。いつから来てないんだろう。馨さん、わかる」 数えているわけがないよ。目もあわせずに告げた。かつて、好きだと言ってやった香水の匂いがしていた。頭痛がするほどにきつく香っていて、それは時間が経過するごとに部屋のすみずみまでしみていくようだった。 さて、どうしよう。彼は長いソファに腹ばいになってすっかりくつろいでいる。しかし、このやっかいごとを愛で、やっかいごとであるがゆえに放棄し、さらなるやっかいごとまでおおきくしたのは、ほかならぬ自分だ。切り離しが甘かったためにみずからのもとへ舞いもどってきたいま、すべきことは事態の鎮静化だった。 「マコ。きみはなにがしたいんだ」 「言ったでしょ。ちゃんとしたお別れ」 それが相手とけじめをつけて別れたいときの態度には到底見えなかったが、いいよと頷いた。はっきり別れてくれるならば、それほどありがたいことはない。しかし内心、ひどく焦っていた。電話で穂希に手を出すことをほのめかされてから、ずっとだ。そうでもないとこうしてわざわざ駅で拾って車に乗せ、自宅まで連れ帰るなんてことはしない。 「それで、なにをどうしたら、きみとお別れできるのかな」 「まあ、急がないでよ。久しぶりに会えたんだから、話でもしようよ。ほら、となりに来て」 彼が起き上がってあぐらをかくと、ひとりぶんのスペースが空く。だまって腰をおろした。拒絶するだけの自由はないように思えた。きみと語りあいたいことなんてひとつもないよ。そんな台詞も、いまはやめておく。むやみに相手の神経を逆なでしたいたちではあるが、それは自分が愚者を演じていいときだけだ。 となりに座ると、より香りをまとった空気が濃くなる。ふと、穂希の清潔な香りが恋しくなった。シャンプーで丁寧に洗ったであろう髪の毛からただよう、棘のない香り。ときには自分の髪の毛とおなじ香りがして、安心することもあった。 いまここにあるのは、たしかにマコと過ごした日の香りでもあり、しかしマコを手ひどく振った日の香りでもある。愛情はいちど憎悪にくつがえると、なかなかもとにはもどらない。愛しい記憶とともにきざみこまれていた香りも、一変して厭悪の対象へと塗り替えられる。 「馨さん。ボクになにか言うことは」 悪魔の尻尾のように長い睫毛が、まばたきとともになんども跳ねた。その目がなにかを期待しているのはわかるが、それがあらたまった謝罪なのか、それとも嘘にまみれた愛の言葉なのか、皆目見当もつかなかった。考えあぐねていると、彼は「いいや」と笑って、肩にしなだれかかってくる。 「いずれ、自然に聞ける気がするの。そしたらきっと、ボクはあなたを許すかもしれないし、許さないかもしれないし。忘れてあげられるかもしれないし、やっぱだめかもしれないし」 「いずれでは困るな」 「まあ、そうだよね。でもやっぱ、ボク思うの。これだけボクのこと苦しめておいて、いますぐに許して忘れてもらおうだなんて、ムシがよすぎるなあ」 だ、か、ら。冷えた指先が、すっかり乾ききったくちびるをゆっくりとなぞってきた。キスが欲しいときに彼がよくしていた仕草だった。 「わかるよね。あの子に犠牲になってもらうの」 穂希の顔が目の前にちらつく。マコのごきげんをとるつもりで、くちびるに触れていた彼の指をそっと食んだ。 「彼は僕たちの問題になにも関係ないはずだ」 「関係ないね。だからこそ巻きこみがいがあるの」 「それに、今日きみと会えば彼に手を出さないという話だったと思うけれど」 「気が変わっちゃったかなあ」 手を握って、聞き分けのない子どもをたしなめる口調で媚びてみせる。必死になる自分自身のすがたに吐き気がした。 「マコ。お願いだから変な真似はやめてくれないか」 「どうしよっかなあ。ボクはあの子の大学もバイト先も知ってるし、自宅だってわかる。あんなにふらふらした子、ちょっとかすり傷を負わせるどころか、路地裏に連れこんでやりたい放題やってもらうことだってできるの。馨さんとかかわったばかりにかわいそう」 あーあ、かわいそうかわいそう。彼はそのちいさな顎を突き出して、口の端をゆがめ、笑う。この少年をこんなにもおそろしいと思ったことは、かつてない。 「僕が憎いのなら、こんどは誠心誠意こめて謝るつもりだ。欲しいものがあるなら、できるかぎり応える。だから」 「どうしたの? なんだかあの子の話をした瞬間から、ひとが変わっちゃったみたいだね」 これは脅しであり、脅しでないとわかっていた。彼は昔から、嫉妬からくる異常な行動が目につく少年だった。あるときはクローゼットにあるスーツを残さず引き裂かれていたり、あるときは仕事用のスマートフォンのパスコードロックを勝手に解除され、取引先全員によくわからない内容のメールを一斉送信されていたりした。今回も、きっと本気だ。 「彼だけは、許してほしい。お願いだ」 「ええ、馨さん、なんか変だよ。そんな顔するひとじゃなかったでしょ」 どんな顔をしているんだろう。彼の瞳に映る自分は、のぞきこむ気になれない。ひどく醜い顔をしていたとしても、それでいい。しかし、内側から絞るように吐き出した言葉は、これまで生きてきたなかで一番正直だった。 「彼を愛している」 握っていたはずの手を、捨てるように払いのけられた。 へえ。愛してる。へえ。ボクにそんなこと言ってくれたこと、いちどもなかったよね。そっか。愛してるんだ。なら、しかたないか。まるで、うたうようなつぶやき。 「馨さん。キスしてよ」 ほんとうはもう、一番愛しい相手以外のくちびるなんて、触れる気にならなかった。しかし、ためらいながらもくちづけてやったのは、強要されたからでも、許しを請いたいからでもない。彼がたしかに抱いた憂いを、すくなからず感じたせいだ。 ごめんね、マコ。これでほんとうに終わりにしよう。けれど。 「やだ。いつもあの子にしてるみたいにして。このまま、馨さんのほんとうの好きを知らないままお別れするのはいやなの」 「でも、きみは彼じゃない」 「知ってる。でも、夢見るくらい……」 すっかり陽が落ちるのが早くなっていて、カーテンの隙間からするどい西日が差しこんでいた。息苦しささえおぼえる眩しさ。この時間は好きではない。いつもさっさと夜が訪れてくれることを待ち望んでやまないが、この日ばかりは陽が傾くごとに焦りが増していった。 「月ヶ瀬さん、全然連絡くれないからちょっと困っちゃった」 玄関で靴を脱ぎ、ついでにしゃがんでそろえながら、穂希が口をとがらせた。 「すまない。あとから見てみたら、メールが未送信のままでほったらかしになっていた」 「いまどきまだメールなんてつかってるからですよ」 そうだね、と曖昧に笑って、洗面所で手を洗う彼をうしろから抱きすくめる。鏡に映る彼の顔が、自分を見つめてきょとんとした。 「あれ、月ヶ瀬さん、香水変えましたか」 「ああ、そうだね。すこし気分転換に。どうかな」 「俺は前のほうが好きかな」 手を繋いでリビングにもどり、そのまますとんとソファに腰掛ける。いつもここで、今日あったできごとを報告しあって、そのあと食事にする。料理はお互い苦手だから、いつもデリバリーのチラシを眺めてばかりいる。 「そういえばここにあがってくるとき、エレベーターからすごくかわいい男の子が降りてきましたよ」 「そうなの? きみよりかわいい子なんて、この世にいるとは思えないけれど」 「小悪魔、っていうのは、きっとあんな感じの子を言うんだろうな」 へえ。いつか僕も見てみたいな。お腹、空いただろう。穂希はピザが好きだね。好きなものを選ぶといい。1db12b65-e764-423b-95b0-26f035402af6
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