09

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マコがあがりこんでくるのは、決まって土曜日の昼だった。平日の夜を空けると言っても、土曜日がいいといってきかなかった。おかげでここ数週間は穂希の店に行くことができずにいた。 舐めしゃぶられてようやくその気になった身体をつかって、マコを抱く。こんなのはただの作業で、処理にすらならない。シーツをつかんで腰を揺らす彼を見下ろして、今夜は穂希となにを食べようか考える。どうせまた味の濃いものを欲しがるのだろうが、そろそろピザも飽きてきたころかもしれない。外食に行くのも、きっといい。彼が好みそうな店をいくつか知っているから、こんどはしっかり予約しておこう。 「馨さん」 そろそろか。こうして、こうすれば、満足してくれて、すべて無事に終わる。完全にゆだねられている身体をあつかうことは、香油を相手の好みに照準をあててブレンドするよりもたやすい。 肩で呼吸をする彼の、潤んだ瞳は薄闇に溶けた。二の腕に痛いほど指を食いこませてくる。情事の飛沫がシーツに散っていれば替えなければならないので、つい彼よりもそちらを気にしてしまう。 「馨さん、ボクのこと見て」 見ているよ、と膝でシーツの上をさぐった。 「ボク、あの子よりかわいいでしょ? あの子じゃなくてボクを愛してよ。そっちのほうが幸せだよ」 「悪いけれど、きみより彼のほうがはるかに魅力的だよ」 目の前の顔にきつく睨みつけられるのをわかっていて、そう口にした。いくら彼を機械的に抱きつづけていても、それを譲ることだけは最後の自尊心が許さなかった。 二の腕をつかんでいた手が片方はずれて、胸元を思いきり引っ掻かれる。サロンに通って手入れしていたご自慢の爪はいつもすこし伸びていた。それは思いのほか深く、皮膚を抉ってきた。 あまり怒らせないで。高飛車な台詞に謝ってみせることはなかったが、その一撃で彼はある程度気が済んだようで、至極すっきりとした顔で繋げていた身体をみずから逃れた。腹部に飛散していた彼の精が脇腹を流れてシーツを汚したところを見てしまい、無意識にクリーニング屋を呼ぶ時間を計算しはじめた。 「やっぱボク、あの子が嫌い。嫌いなものは嫌いなの。いつかぜったい、ひどい目にあわせるの」 「マコ」 「でも、馨さんが来週もかまってくれるなら、考え直してもいいかなあ」 自分は仏の顔を無尽蔵に用意しているように見せているが、堪忍袋のキャパシティは意外と狭い気がする。そろそろ詰めこみすぎた諸々が、その縫い目を引き裂いて溢れ出すころかもしれなかった。 「マコ」 「なあに、馨さん」 いいかげんにしないか。その言葉はぎりぎりのところで、喉の奥に引っこんだ。ベッドサイドに置いていた彼のスマートフォンが、四角い光を浮かび上がらせた。着信音が空気を掻き回しながらわめき散らす。彼は目の前の男がなにか言いかけたことなど忘れたかのように、端末を手に取る。 「もしもし。ん? いまはひとりじゃないよ。そう、よくわかったね。妬かないでよ。うん、わかってる。プレゼント? 今週はいらないかな」 聞きたくもないのに電話の向こうの声が聞こえてきて、それは必死でマコの気をひこうとしていた。マコは端末を握っていないほうの爪ばかり見て、電話の主をうまく手玉に取りつつも適当に聞き流しているように見えた。傍観していれば、相手がひどく不憫にすら思えた。 ところで、と電話の向こうから低い声。それはゆっくりとあらたまって、とても重要な要件を語る前の緊張感があった。そこでマコはちろりと視線を投げてよこす。それからまるで、目の前の男に警告するように唇を動かすのだった。 「その件ね。まだ焦って動いたりしちゃだめ。そうだな、ボクの機嫌がとっても悪くなったらお願いしちゃうかな。うん、そしたらちゃんと、約束どおりつきあってあげる」 ほら、これがあなたにとっての驚異だよ。危機はちゃんとあの子に忍び寄っていることがわかったかなあ。状況に現実味が増したでしょ。彼は語らずして切れ味のいい現実を喉元に突きつけてきた。 お前には憤る自由すらもないのだと、そう言いたいらしい。 「わ、どうしたんですか、この引っ掻き傷」 完璧に替えたシーツの上で、穂希が跳ね起きた。やはりこんな目立つ傷が見つからないはずがなく、安易に脱いでしまったことを後悔する。しかし今夜肌を見せなかったとしても、彼と恋人の関係でいるうちは避けられるはずがなく、いずれにしてもばれてしまうのは時間の問題だ。 「さっき風呂場で、うっかりね」 「うっかりっていう傷の深さじゃないですよね、これ。薬塗りますから」 「ありがとう。右の戸棚の、一番下の引き出しのなかにある」 彼は薬箱をすぐに見つけ出した。あれでもないこれでもないと薬を選び、最終的に無難な軟膏を取り出して塗ってくれた。シャワーを浴びただけでもひどく痛んだ傷口に、薬も当然のようにしみた。 「薬を塗ってくれたのがきみだから、きっと早く治る気がする」 「またへんなこと言ってる。月ヶ瀬さん、疲れてるみたいだし、今日はもう寝ましょうか。最近はお店に来れないくらい、仕事も忙しいみたいだし」 疲れていたのは事実だった。だが、今夜は彼の肌に触れられないことが残念でならなかった。曖昧な気持ちを伝えられるだけの言葉を持ち合わせていなくて、結局だまりこんでしまう。そうしているうちに彼が部屋の明かりを消そうと待機していることに気づいたので、しぶしぶシャツのボタンをとめた。 おやすみ、穂希。せめて体温だけでも欲しくて、細い身体を腕のなかに抱きこむ。すると彼はすとんと眠ってしまって、定期的な呼吸が首筋をくすぐるようになった。なんだ、きみのほうが疲れてるじゃないか。ひとりごちて思わず笑った。 そっとくちびるにみずからのそれで触れると、彼の目がぼんやりと開き、閉じて、くちびるが返ってくる。そしてまた寝息が聞こえる。愛おしいということが、こういった感情をさすのだとしたら、気が狂いそうなほどに甘美だ。 だが、自分にはそれに陶酔しきるだけの権利はない。罪は重なっていく。唯一なくさなかった誇りはあったが、それが原因となり傷を受けることにもなった。結果的に一番愛しいひとを困惑させてしまっただけだ。 彼のすべらかな頬を、指先でなんども撫でる。この寝顔は、いつまでもこのまま、おだやかでありつづけてほしい。痛みを抱え、苦しみゆえに侵されてしまうことなどあってはならない。 穂希。 「きみを守れるうちは、かならず守りつづける。きみがそれを望んだように」 穂希。 「でもいつか僕は、きっときみを傷つけてしまう」 それでも彼の手を離せずにいるのはきっと、無様にしがみついているだけにすぎないのだろう。はらいのけられてしまえば、すべて終わりだ。 いつかは、いつかやってくる。それが悪いことであればあるほど、確実にやってくる。 もう暖房をつけなければ、シャツなど脱げない空気になっていた。身体が冷えれば、こころが蝕まれる。マコを見送るために立った玄関は、足元が凍りつくような温度だった。 彼は靴を履くのにひどくもたついていた。それがまた、過敏になっている神経を刺激した。さきほどまで、ベッドの上で帰りたくないと駄々をこねるのを必死になだめていたところだった。もうすぐで穂希がここをおとずれる時間になってしまう。 すっと立ち上がった彼を見て、ため息が落ちそうになる。じゃあ気をつけて。煩慮の言葉に似せたそれは、こころなしか早口になった。 「その前に、もういちどキスして」 そうすることで、さっさと帰ってくれるならば。目を閉じて、彼にくちづける作業をして、おやすみと手を振ろうとした。 しかし彼の両腕が、蛇のように首にからみついてきた。ブランドのかばんが派手な音をたてて床に落ちる。自分は買いあたえた覚えがないから、ほかのだれかに貰ったのだろう。見開かれた彼の両目の奥にあるのは、欲望ではなく悪意に見えた。 「やっぱり帰りたくないの。泊めて」 落ちたかばんの口からはみ出したスマートフォンが、けたたましく鳴りはじめる。玄関は音がよく響いて、耳障りというよりもただおそろしかった。出なくていいのか訊くことができないまま経過した時間は、果てしなく長く感じられた。 彼の着信音が鳴りやむのと入れ替わりに、リビングに置きっぱなしにしてきた自分のスマートフォンの音が聞こえた。間違いなく穂希からの着信だった。マンションの最寄駅に降りたとき、もうすぐここへ到着する合図として連絡をくれるのが、すっかり決まりごとになっていた。 あと十分か。マコが食べていたケーキの箱はそのままだし、シーツだって替えていない。そして自分は、ここで悪魔に捕獲されていて身動きがとれない。邪険にあつかえばなにが起こるかわからない。笑顔で彼の頭を撫でて、その場をごまかそうとした。 「馨さん、そういうのはいいの。泊めてくれるかどうか訊いてるの」 いつもの甘えた声と違い、すこし刺々しかった。しかしやたら間延びしていて、時間稼ぎをしているようにも聞こえた。彼のほんとうのねらいがわかってきて、焦れば焦るほど、彼の思惑に嵌っていくのだと気づいた。 なにも答えることができない。どうしたところで、待っているのは自分にとって都合の悪い結末だった。やがて、玄関のロックが外側から解除される。 穂希はどこにも行かないなんて約束をしたがらなかったから、自宅のカードキーを渡すことで彼を繋ぎとめた気になっていた。わざわざ演じずとも、自分はただの愚者であった。だからおろかな理由で、おろかな男だったと見限られるのがお似合いだ。 「あれ。ごめんなさい。部屋を間違えちゃったかな」 天使は瞳をなんどもまたたかせて、悪魔の肩越しにこちらを見た。自分はどんな顔をしていたかわからないが、いつか彼に好きだと言った日とおなじ顔をしていないのはたしかだった。 「なーんて。俺は今夜いらないみたいですね。開けちゃってごめんなさい。帰ります」 ひとことも口をきけないまま、扉が閉まった。不気味なほど静かにノブをもどされたあとで、慌ただしく廊下を駆けていく音がした。ただ、転んでしまわないかどうかだけが心配だった。 「あれ、馨さん、追いかけなくていいの」 「ああ。追いかければ、かならず言い訳をすることになる。彼を守るためとはいえ、彼を裏切っているのは事実だ。見苦しい真似はしないよ」 「ふーん。そんなこと言うひとだったかなあ」 重たかったマコの腕がはずれる。そのまま彼は床に落ちたかばんを拾うと、スマートフォンの不在着信を漁りはじめた。 「もしもし。出られなくてごめんね。んー、ひとりじゃないけど、いまから帰るとこ。え、これから? べつにいいけど、お腹すいちゃったなあ」 そのまま挨拶もしないで出ていった。足がひどく冷えて痛かった。だまってリビングにもどり、テーブルの上にあったケーキの箱を捨てた。クリーニング屋は何時までだっただろうか。
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