第1章 越してきた|女性《ひと》

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 初めて彼女を見たのは、梅雨明けが近い6月最後の日曜日だった。  雨音に混じって、トラックのタイヤ音が聞こえ、続いてシューッという停止後のエンジン音が住宅街に響いた。  明け方まで深夜ラジオを聴いていた僕は、半分寝ぼけながら、窓の外を覗いた。  トラックは、引っ越し業者のものだ。しばらく空き家だった隣の家に、誰か越してきたらしい。  好奇心でカーテンを細く開いて、覗き見る。  隣家の門から赤いレインコートが現れ、トラックの荷台に向かった。そのフードがはらり、風でめくれ……その下からショートカットの女性の姿が見えた。  ――あ……!  僕の部屋は2階だと思って、油断していた。  フードを被ろうとした女性の視線が、僕を見つけ――目が合った。20代後半か……30歳前後だろうか。イトコのヒカリ姉ちゃんが32歳だから、多分同じくらいだろう。彼女はちょっと表情を崩し、軽く会釈したようにも見えた。  固まっていた僕は、思わずカーテンを引いた。  ――感じ悪いヤツ。  咄嗟に後悔したが、再び窓外を覗く気にはなれなかった。  それが夏美さん――早川夏美(はやかわなつみ)さんとの出会いだった。 -*-*-*- 「――お? 今夜は蕎麦か。珍しいなあ」  親父が、ダイニングテーブルの中央にドンと置かれたザルの中を覗き込む。  梅雨時の食欲減退にちょうどいい、梅おろしが丼にたっぷり盛られている。 「昼間、お隣に越してきた早川さんが持って来たのよー」  キッチンから母さんが、ネギを盛った中丼を手に現れた。 「お隣入ったのか。今時『引越し蕎麦』なんて律儀だなぁ」 「親父、『引越し蕎麦』って何?」  僕はダイニングの椅子を引く。  おっ、と呟いて、親父は僕をマジマジと見た。 「そうだよな、今時の若者は知らんよなあ……。引越し蕎麦ってのはなぁ、越してきた人がご近所に挨拶しながら配るんだ」 「ご近所って、町内会?」 「向こう3軒両隣、って言ってね、引越して来た家の左右と、向かい側の正面と左右、合わせて5軒のことを言うの」  親父のビールとグラスを持ってきた母さんが、ダイニングに着きながら説明に加わる。  うちは僕が生まれて以来、一度も引越したことがないから、初めて聞く習わしだ。 「……何で蕎麦なのさ? もっとお洒落な菓子折とかさー、ケーキなんかじゃダメなの?」  親父がすすってた蕎麦を詰まらせて、むせる。
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