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夕方、トイレに降りた時、いつもの平均年齢の高い笑い声ではなく、押し殺したようなボソボソとした話し声が廊下に漏れ聞こえていた。ドア越しなので、話の内容までは分からない。 奇妙に思い、よほどリビングを覗こうかという誘惑に駈られたが――止めた。
ただ、その声の中に、夏美さんがいない気がして、玄関に並んだ履き物を確認してみた。案の定、地味なサンダル達の中に、彼女のものらしい靴は見当たらなかった。
その夜――。
「母さん、今日、夏美さん来たの?」
ダイニングテーブルに着きながら、キッチンに声を掛ける。
「……来なかったわよ」
何故か不機嫌そうな答えが返った。
「何だ、まだ体調悪いのか?」
冷奴を肴に、一足先にビールを飲んでいた親父が会話に加わる。
親父は赤黒く日焼けしていた。いわゆるゴルフ焼けだ。
「どうかしら。最近、誘っても断ってばかりだから」
世話好きの母さんが、珍しく素っ気ない。
「……どうかしたのか?」
その様子に親父も妙な印象を受けたらしい。
テーブルに、大皿を持って来た母さんに注目する。皿には、所狭しと焼き茄子が並んでいる。食卓も季節が動いているのだ。
「何か夏祭りの後から、色々噂が立っちゃってね……声を掛けにくいのよ」
また『噂』だ。
「噂ってアレか? 清瀬さんのお孫さんじゃないかっていう……」
「それもあるんだけど――」
母さんは、茄子にポン酢醤油を豪快にかけた。油をはじいて、ジューッと旨そうな香りが立ち上る。
しかし、料理のポテンシャルを殺ぐようなしかめ面だ。
「ほら、清瀬さんって……殺されたって噂があったでしょ。夏美さんは、真犯人を探しに戻ってきたんじゃないか、って」
「……何だそりゃ」
冷奴に付けていた箸が止まる。親父は呆れ顔で母さんを見た。
「そもそも清瀬さんが殺された訳でもないのに、それに早川さんが清瀬さんのお孫さんと決まった訳でもないのに、か?」
「そうなの。他にも、あの若さで家を買ったからには、清瀬さんの遺産を相続したからだ、とか……何だか訳が分からないのよ」
焼き茄子の上の鰹節が踊る。母さんの戸惑いを体現するかのような、気の抜けた踊りだ。
「噂って無責任だね」
『夏美さんの噂』に辟易した様子の母さんだったが、憤慨気味に吐き出した僕をじっと見た。
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