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午後7時半。
残業をそこそこに切り上げて病院へと向かう。
面会時間は本来なら午後8時までだが、病院側には最初に事情を説明してある。だからそれ以降に面会することは、向こうも了承済みだ。
残業して当たり前の時代に生きるサラリーマンとしては、非常にありがたい取り計らいだと言わざるを得ない。
病室のドアを開けると、そこには3年前から変わらない風景が、今日もごく自然に自分の瞳に映った。
それは、いつもと変わりなく静かに横たわっている現実。
自分の血を半分分けた、幼く愛しい少女の寝顔が、真っ直ぐ白い天井へと向いていた。
「香菜。お父さん、来たよ」
来客用の椅子にゆっくり腰かけて声をかけ、沢山のチューブに繋がれている娘の手を握る。
何の意志も持たない、無機質な娘の手を。
声をかけたところで、娘からの返事がかえってこないことは当たり前だ。
何故なら、彼女は交通事故に遭って脳に激しい損傷を患い、植物状態になっているから。
それは、3年前の下校途中のことだった。
仲の良い友達と別れた直後、信号待ちをしていた娘を含めた4人の通行人に向かって、突然大型トラックが突っ込んできた。
運転手に、てんかんなどの持病歴やクスリをやっていた事実は無かった。
しかし事故の直前、一時的に意識が飛んでしまったらしい。
気がつくと、歩道に乗り上げて電柱にぶつかった後だったと。
居眠り運転中の事故だとされた。
1人が亡くなり、残る3人が重傷。
娘はかろうじて命はとりとめたものの、今はこうして目や口を開くことはない。
看護師が切ってくれたのだろうか、真っ直ぐに切り揃えられた前髪の辺りを撫でる。
昨日までは、目にかかるくらいの長さだった。
髪の毛も爪も、元気に走り回っていた時と同じように生えてくる。
生きているから当たり前だと言われたらそれまでなのかもしれない。
「前髪切ってもらったのか……可愛いな」
どれだけ笑いかけても、どんなに褒めても、昔のようにあどけない笑顔を向けてくれることは、もうこの先一生ない。
香菜の病室へは行ける限り、ほぼ毎日通っていた。
それは今、俺しか此処に通える家族がいないからだ。
「また、明日も来るからな」
この日も、香菜にそう言い残して病院を後にした。
その病院からの帰り道、俺は出会ったのだ。
彼女ーートシに。
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