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ずしん。ずしん。足音は、確実に遠ざかっている。由美子は家の左側の壁に張り付き、息を整えた。ここから、顔を出せば。ちょっとだけでいい。顔を出して、通りの右方向を見れば。「それ」がいる。遠ざかっていく、「それ」の後姿がそこにある! 先ほどまでの恐怖心は未だに、執拗に由美子の体にへばりついていたが。今の由美子は芽生えたちっぽけな勇気と共に、新たな興奮を感じていた。それは衝動と言っても良かった。
ここまでやったんだ。ここまで来たんだ。ここでやらなかったら、一生後悔する。もう、あの恐怖と対峙する勇気は出ないかもしれない。今やらなかったら、私は一生「それ」を見ることは出来ない! 由美子は頂点に達しようかという恐怖と興奮に全身を包まれながら、自分の頭をほんの少しだけ、壁から突き出した。そして、通りの右方向に、ゆっくりと、ゆっくりと視線を移した。
その視線の先に。そこに、「それ」はいた。
由美子は思わず両手で口を押えた。また、叫び声をあげそうになったからだ。自分の望みが遂にかなったという思いと、そして、現実に自分の目ではっきりと確認した「それ」の姿に。由美子はただひたすらに感動していた。
「それ」は……やはり、「陰」だった。おぼろげな輪郭は、確かに生物の形を形成してはいたが、周りの空間との境目は、極めて曖昧に見えた。なのにそれでいて、はっきりとした質感があった。幻のような存在ではなかった。「それ」は、確かにそこにいた。
街の中でも際立つくらいに高くそびえる見張り台よりも、更に巨大なその姿は。その後姿だけを見ても、何か神々しくすらあった。ゆらり、ゆらりとおぼろげな輪郭を揺らしながら、ゆっくりと遠ざかっていく後姿を見て。由美子は今、完全に圧倒されていた。しかし。
ずしん……ずしん。
ぴたり。
ゆっくりとしたその後姿の歩みが、突然止まった。地響きのリズムが止んだ。それは由美子にとって、予想外の出来事だった。物心ついて以来ずっと聞き続けていたそのリズムは、止まることなどなかった。いつだってその地響きは、ずしんずしんと、一定のリズムで歩み続けるものだった。それが今、止まった。その理由は。原因は何か。それは、「それまでに決してしなかった」事をしている、自分以外にありえなかった。「それ」の姿に感動していた由美子の心に、再びとてつもない恐怖が襲い掛かって来た。そして。
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