陰獣の街

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 仕事を終え、街へと続く橋を渡る手前で、由美子はいつも思うのだった。あれだけの地響きを立てながら移動している「それ」を、この「橋の向こう側」で人々が見ることはないのだろうか? 少なくとも、街全体を揺るがしているかのようなあの足音を、こちら側で聞くことはないのだろうか……。  これは、街の外で働いている由美子にのみ起こりうる、独特の感情かもしれなかったが。しかし、その事を「こちら側」で誰かに確認することは出来なかった。それはとりもなおさず、「それ」の存在を街の外に知らしめてしまう事になるからだった。 由美子はなぜか今、橋の袂で猛烈な感情に襲われていた。確かめたい。「それ」の姿を一度でいい、この目で見てみたいと。  今日の午後六時過ぎ、電車の中で由美子の携帯が鳴った。家からの着信だった。この時間に家から着信があるということは、間違いなく「それ」の警報が鳴ったということだ。いつもなら電車を降りてから、あとどれくらいで家に着けるか、もしくは今日は間に合いそうにないので、「こちら側」で泊まるところを探すと母親に連絡するのだったが。今日はなぜか、そういう気分になれなかった。  先日の、ギリギリで間に合ったというスリリングな体験。あれを上回るスリルを味わいたいという、子供じみた理由だったかもしれない。あるいは、自分をそこまで追い込んだ物を、一度でいいから見てみたい。見なければ気が済まない! そういった押えきれない衝動的な欲求が溜まっていたのか。由美子の頭の中には、ある考えが浮かんでいた。そして由美子は今日、それを実行に移したのだ。夕闇の迫る中、由美子は生まれて初めてと言っていい決意を胸に、ゆっくりと橋を渡り始めた。
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