陰獣の街

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 家に着く手前で、「五分前」のサイレンが鳴った。由美子の胸がドキドキと高鳴った。今ならまだ間に合う。今家に駆け込めば、馬鹿げた考えを実行に移さずに済む。一瞬由美子は躊躇しかけたが、その時遠目に我が家の扉が少しだけ開くのを見て、再び由美子は足を止めた。由美子の母親が、連絡もなく、未だ帰らぬ娘が家の近くまで来ていないかと、扉の隙間から外を伺っていたのだ。それを見て、由美子は逆に「それ」について客観的になれた。  ごめんね、母さん。でも、一度でいいの。私は「それ」が一体なんなのかを、確かめてみたいの! 由美子は母親に見つからぬよう、そっと電柱の陰に身を隠すと。家の扉が再び閉まるのを確認し、足音を忍ばせながら我が家へと近づいていった。  「それ」が家の前を通るルートは、いつも決まっている。我が家の傍に来るまでに、どんなルートを通ってくるのかまではわからないが、家の前を通り過ぎる時は、必ず「左側から右側へと」地響きが移動していくのだ。由美子は、「それ」がいつも移動していく通りとは反対側の、家の壁の傍らで身を屈めた。  ここにじっとしていれば、「それ」が移動していく通りからは完全に死角だ。声を上げたり、物音を立てたりしなければ、「それ」に見つかる危険はない。そのはずだ。それはあくまで「言い伝え」による材料でしかなかったが、由美子は自分にそう言い聞かせていた。  ここでじっと身を潜め、「それ」の足音が家の前を通り過ぎるのを待つ。足音が通り過ぎたら……家の、「左側」へと出る。そうすれば、そこから見えるのは「それ」の「後姿」であるはずだ。家から遠ざかっていく「それ」の。後からなら、大丈夫じゃないかしら。それが由美子の考えだった。  もちろん「それ」が、「一般的な生物の格好」をしているという前提ではあるが。体の後ろ側には「目がついていない」という保証は何もない。しかし、進行方向とは逆に視覚を感じるものがあるという確率は、極めて低いだろうと思えた。由美子は、その確率に賭けてみることにした。「それ」が家の前を通り過ぎた後、その後姿をちらりと覗き見る。それだけでいい。危険は少ないはずだ。由美子は壁にぴたりと張り付くように身をかがめながら、あの地響きが鳴り出すのをじっと待っていた。
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