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しかし天正十二年、龍造寺が滅び、翌十三年大友宗麟が羽柴秀吉に援軍を要請したことで、九州の力の均衡は一気に崩れていく。そして、天正十四年、ついに黒田官兵衛率いる秀吉軍の先陣が九州へと進行してきた。黒田軍はじわじわと南下し、肥後熊本に入り島津を牽制した。しかし官兵衛は島津と戦う気はなかった。得意の根回しと交渉を着実に重ね、秀吉本軍が攻め入った際、あの島津が秀吉の威光に恐れをなして戦わずに降伏した、という九州平定のシナリオができていたのだ。
その官兵衛軍の前に、例の山間の妖術の国がぽつんと取り残されていた。官兵衛としてはそのような小国は捨て置いてもよかった。だが、官兵衛は秀吉のことを最もよく知っていた。もし、例え取るに足らない小国であっても、征服できない国がまだあることを知れば、秀吉は激怒し、信長以上のサイコパスぶりを発揮して罪もない領民を女子供に至るまで殺しまくるだろう。それは、今後天下人となる秀吉の評判を多いに落とし、朝廷から官位を授かることができなくなるかもしれない。
官兵衛は、山間の小国に伝令を行かせた。二つ返事で降伏してくるはずだった。しかし、その国からの返事は拒否であった。官兵衛は重い腰を上げ、戦を決意した。
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