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「好きだ!お前の事を愛している!俺とここを出よう!!」
男はそう言った。
女にとってその言葉はとても嬉しくて、でも叶わない現実を理解しているからこそとても悲しくて、泣きそうな顔で首を横に振った。
夜の帳が降りて二人を照らすのは小さな行燈の灯のみ。男の顔を映す光はぼんやりとどこか儚げで静かに揺らめいている。
女は静かな表情で男を見つめ、そして言った。
「旦那さま、ここはどこかご存知で?」
「遊郭だ。そしてお前は遊女。足抜けなんて許されない。見つかったら二人とも打首だろう。」
「それを知ってて話すなんて、いけずなお人...。旦那さま、冗談も程々にしてくださいな。」
「冗談なんかじゃない!本当にお前を愛しているんだ!!」
男は女の肩をぐっと掴んだが、女はその手をパシンッ!と打って払い除ける。
「何故だ、何故なんだ...。」
男はそう言って俯いた後、静かに涙した。
女は乱れた衣服と姿勢を正し、男に向き合った後、静かにこう言った。
「旦那さま、ここは遊郭。吉原の格式高い遊郭でありんす。わっちが欲しければ金を持ってきなんし。いくらおゆかり様と言えど、身請けも出来ないのに愛してるなんて戯言、いいなんすな...。」
俯いていた男は、ゆっくりと静かに顔を上げ、じっと女を見つめた。そして袂から1つの木箱を取り出した。
「...これは、お前と遊郭を抜け出した後、契りの時に渡そうと思っていた簪だ。もう此処へは来ない。だけど、せめて、せめて!これだけは受け取ってくれ...!!」
震える手で懇願するかのように渡してきた簪は、金と漆が使われたとても美しい代物で、男が女の事を想って拵えた事が、良く伝わる品だった。
「...わかりんした。ここに確かに。」
そして女はぐっと歯を食いしばり、言葉を続ける。
「......様が済んだなら、もう行きなんし!!
おさらばえ、旦那さま...。」
男は何か言いたそうな、そして今にも泣きそうな顔をした後、女に背を向け、振り返らずに部屋を後にした。
残された部屋には、簪を握りしめ、ただ悲しみにくれる一人の女と、そこに男がいた事を思わせる布団の染み、そして静かに揺らめく行燈があるだけだった。
そして時が経ち灯の油も尽きて、部屋は暗闇に包まれた。皮肉にも女の心とは裏腹に、闇に光る空の星は美しく瞬き、廓を照らす月の光は、ツンと冷たく銀色に輝いていた。
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