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程なくして終点を告げるアナウンスがかかった。
彼は手すりを持ったまま、くるりと外を向いてドアと向き合う。
今日はテストが終わった朝で、いつもとは少しだけ違う、新しい朝。
わたしも立ち上がり、彼の立つ乗車口へ向かった。
本当はわたしのことなんて見ていないとわかってはいるけれど、そこに座る女の人にも向かいに座っていたおじさんにも、駅の出口から遠のくドアへ向かうことを、どう思われたって構わない。
少し重心をずらしたあと、電車がとまった。
手すりを握っていた彼の手から力が抜かれ、そしてそっと離れていく。
思いのほか優しいそれは、まるでどこか名残を惜しんでいるかのように見えた。
早鐘を撃つ心臓に逆らって、殊更ゆっくりと足を進める。
視線が彼の背を追っていたからか、何の気なしに手を置いたそこが彼の握っていた手すりだと思い至った瞬間、反射的にそこから手を引っ込めてしまった。
崩したバランスでよろけるように車外へ出て、自分の鞄の肩掛けをぎゅっと握る。
不自然だったと思う。意識していることを自ら触れ回ったようなものだ。そんなことないっていうのは、わかっているのだけれど。
ホームに降りた途端、冷たい風が吹き抜けた。
車内の暖房で暖まったコートを背負い直しながら、一瞬だけ触れたあの手すりを思う。
きっと、彼の握っていたところは暖かかった。
そのぬくもりに触れる覚悟が、わたしにはまだない。
それでも私の手のひらは熱くなっていった。きっと頬も赤い。
どうか、彼が振り向いたりしませんように。
必死に彼の姿を拾い集めるわたしに、ちょっとしたことで熱を集めるわたしの頬に、ずっと気がつきませんように。
もう少し先のバス停で、大量に吐き出される遅刻予備軍の制服たちにかき消されるまで、わたしは今日も決してわたしを振り返ったりしない彼の後ろを歩くのだ。
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