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第二席:十王庁
「これを」
そう言って河童が手渡してきたのは、真ん中に赤い墨のようなもので目玉が一つ書かれ、その周りに、ぐるりと漢字が書かれた不思議な白布だった。
「これは?」
「その布で顔を覆って、決して取っちゃあいけませんよ!帰って来られなくなっちまうかもしれないっすから!」
河童は強い口調でそう言うと、次の瞬間、パクパクと大きな口を動かし、何やら言葉を探しているようだった。
「それから、それから――師匠の側を絶対離れちゃダメっすよ!」
不安で倒れてしまいそうというような表情を浮かべる河童に、つくづく人間臭いなぁと、心が温かくなる。心底、私の身を案じてくれているらしい。
「ありがとうございます。ちゃんと、帰って来ますから」
そう言って河童の目を真っ直ぐに見つめると、河童はまだ何処か心配そうにしながらも、コクリと頷いた。
「ちさちゃん、それ、貸してちょうだいな。頭の後ろで結ぶ必要があるから、私がやるわ」
「ぁ、じゃあお願いします」
さとさんに布を手渡し、促されるまま、畳に座って目元へ付けてもらう。
割としっかりした生地の布だったため、こんなものを付けて、ちゃんと前が見えるのだろうかと疑問に思っていたのだけれど、不思議と視界は何も付けていないかのようにクリアだった。
紐を結び終わったさとさんは、言葉無く、私の両肩へ手を乗せると、ポンポン、と優しく背中を押してくれた。
「いってらっしゃい、ちさちゃん」
「いってきます」
さとさんの掌からパワーを貰った私は、後ろを振り向き、明るい声音で応えた。
「視界は問題ないっすね?」
コクリと一つ頷くと、河童は私の手を取り、通路を通って楽屋から客席を通って正面玄関へと向かう。
玄関の前では、吉助師匠と一人の男性が佇み、何やら話し込んでいるようだった。
「――来たか」
師匠が呟くと、私に背を向ける形で立っていた男の人が振り返る。
(う、わ……物凄い美形……)
美形、という言葉でしか言い現せないのがもどかしい程に整った顔立ちをした男性だった。スラリと通った鼻梁と、透き通った肌。狐目だが、キツいという印象を受けないのはなぜだろう。瞳の色が柔らかな金色だからだろうか。薄い唇は、ゆったりとした笑みが刻まれている。
「貴女が――ちささん、この度は突然の事で、驚かれたでしょう」
思ったよりも低めな声音。だが、物凄く優しく、柔らかな物腰だった。平安時代の人が着るような、黒い狩衣の装束を纏っている。
明らかに人ではない。だが、妖とも違うような、何とも言えない空気感と存在感を纏っている。
「時間が勿体ない。話の続きは歩きながらでも出来るだろ」
「またそんな物言いを……平時も、口演中の十分の一程でもいいので、にこやかに話されてはいかがです? それではまるで、職務中の大王のようですよ」
呆れたように師匠を窘めた男の人は、無言でさっさと玄関の引き戸を開きに向かった師匠を見るや、盛大な溜息を吐いた。
「さあ、では参りましょうか」
ニコリと笑んだ男性に、私はコクリと一つ頷き、河童と繋いでいた手を放して男の人へと歩み寄った。
「お戻りを、お待ちしております」
河童が凛とした声で私の背中を押してくれる。私は河童に振り返ると、ペコリと一つお辞儀をした。
「ありがとう。すぐ戻ります」
男性と連れ立って引き戸の前へ向かうと、吉助師匠が戸を開けてくれた。ゴクリと生唾を飲み込みながら、私は足を前に踏み出す。
「あれ、いつも通り……」
入って来た時と変わりない、美しい屋根を持つ寄席の建物と、通りに続く石畳。等間隔に立つ幟(のぼり)には、吉助師匠の名前と豊楽亭の名が交互に連なっている。
吉助師匠の口振りから、てっきり、一歩外に踏み出した途端に広がっているのは、落語『死神』の中に出て来るような、無数の蝋燭が灯されている昏い場所なのではないかと思っていた。
なんだか、肩透かしを食らった気分だ。
「おや、この辺りで別れた筈ですが――通りに出てしまいましたかねぇ」
「どなたかと一緒にいらしたんですか?」
「えぇ。上司の侍女と共に」
上司の侍女……つまり、閻魔大王のお付きの者、という事だろうか。ここが師匠から聞いた通り、この世とあの世の境なのであれば、ここを統べているのは閻魔大王という事になるだろう。目の前の男性も閻魔大王に仕える者なのだろうか。
「行くぞ」
男性の話にすっかり気を取られていた私は、遅れて出て来た師匠のぶっきらぼうな声に促され、通りへ向かう。
「落ち着いてるな」
隣を歩く師匠から声が掛かり、私はその横顔を見つめた。
「思っていたよりも見慣れた景色だったので」
「見慣れた、か。まぁ、通りに出てもその冷静さを保っていられりゃいいが」
師匠のぼやきに首を傾げながら、正面へと顔を戻すと、すぐに通りの景色が視界に飛び込んで来る。
「――え、」
それは、一言で言い表すならば、『チグハグ』だった。
まず、真っ先に目に飛び込んだのは、時代劇の撮影現場などで目にするような道の舗装されていない大通り。通りの左右には、様々な建物が建てられているのだけれど、昔ながらの日本家屋のような造りの酒屋が在るかと思えば、その隣には、私でもよく見慣れたようなビルが建っており、そうかと思えばその隣には何処からどう見ても遊郭だろうという建物が見えると言った次第。
通りを埋める人々は、見慣れた衣服を纏っている者が多いけれど、所々に戦時中の兵隊のような服装の者や、着物を着た者、明らかに妖怪や人外の存在が混ざっているのが分かる。
どう考えても、私の知る浅草の風景ではない。それどころか、様々な年代の存在やら何やらを一つの箱庭に詰め込んだような――そんな光景。
「本当に、」
その後は、言葉にならなかった。
何とも言えない複雑な感情が沸き起こる。理解しているつもりになっていただけなのかもしれない、と思った。
人ならざる者と、人の魂を目の当たりにしてもなお、これは夢か何かだと――心の何処かで、そう思っていたのかもしれない。
「……大丈夫だ。その布を着けている限り、お前の存在は周囲に感知されない。お前は帰れる」
「そう、なんですか」
「ええ、大丈夫です。十王庁に顔を出して頂いた後、すぐにこちらで手配した車でご自宅へお送りしますので、ご安心下さい」
「えっ、車で?」
てっきり、この寄席で朝を迎える事になるのかと思っていた私は、思わず聞き返した。
「ええ。こういった際の対応も心得ていますから。ごく稀にではありますが、誤ってこちら側へ落ちてきてしまう生者の方がいらっしゃるんですよ。例えばーーあぁ、小野篁さんが最も有名でしょうか」
「小野篁……」
百人一首でその名前を見かけた気がする。確か、遣唐副使に任命されたのに仮病を使って乗船しなかったり、風刺の句で島流しになったりと、波乱万丈な人生を送った歴史上の存在だった筈だ。
「そっか、私以外にも、生きたまま此処へ来られる方がいらっしゃるんですね。えっと、あ、お名前――」
そこで私は、男性の名前をまだ聞いていない事に気付いた。
「あ、そうですよね。すみません、名乗り遅れました。僕は、白詠(はくえい)といいます」
「白詠さん」
よろしくお願いします、と声を掛けようとした私の腰の辺りに、突然、ドンと何かがぶつかった。
「わっ!?」
白詠さんとの会話に気を取られていた私は、その衝撃によろめく。
「おっと」
「ぁ、師匠ーーありがとうございます」
尻餅をつきそうになった私を支えてくれたのは、師匠だった。
「いや、細身でアレにぶつかられちゃ、尻餅つきそうになるのも無理ねぇからな」
「あれ?」
私は師匠の視線の先を追い、そこに、二人の小さな子供が居る事に気付いた。
どちらの子も、平安時代によく見られる角髪(みずら)結いで、水干を纏っている。無表情で瞬きもせず、じっとこちらを見ているその姿は、分身かと見まがう程にそっくりだ。
「遅い」
「遅い、待ちくたびれた」
出で立ちは男の子のようだけれど、顔付や声音の感じから、おそらくどちらも女の子だと思われる。双子なのか、それとも分裂した存在なのか。分からないが、ドッペルゲンガーもビックリの瓜二つっぷりである。
「丁禮(ていれい)、爾子(にこ)、またあなた達はチョロチョロと動き回りましたね?」
白詠さんが窘めるように、腰に手を当てながら「めっ!」と怒る。
「だって退屈」
「手持ち無沙汰」
双子はどこ吹く風と言った様子で、臆することなく言い放った。白詠さんは深いため息を吐きながら、私に視線を移す。
「すみません。こちらの二人が、先程話していた、上司の侍女です」
「この子達が……」
自分と同じとは言わずとも、もっと年上の姿を想像していただけに、改めて眼前の子供達をまじまじと見てしまう。
「兎に角、これで揃っただろ。さっさと済ませるぞ」
「吉助、相変わらず偉そう」
「ふてぶてしい」
「うるせぇ。悠長に構えてる時間はねぇんだ。さっさとコイツを帰さなきゃならんだろうが」
双子は師匠の言葉に揃ってコクコクと頷くと、クルリと私達に背を向け、両腕をピンとい直線に伸ばした後、その腕をグルリと頭上まで持ち上げて指先を重ねて輪を作り、重ねたままの手を額へと下した。すると、瞬く間に双子の手の中に笹と茗荷が現れる。
「お通り、お通り」
「お通し、お通し」
双子が一歩足を踏み出すと、シャン……シャン……という神楽鈴のような音色が辺りに響いた。
師匠と白詠さんが双子に続き、通りへと足を踏み出す。私は意を決して、その後に続いた。
ーーシャン、シャン
涼やかな音色が響くたび、往来のを行き交う者達が道を空ける。
「なんだか、聖書みたい」
「あ?」
「なんかありませんでしたっけ、海が割れるの」
「モーゼか」
前を行く師匠が淡々と返してくれる。そうだ、確かそれだ。詳しくはないけれど、そんな話を聞いた事がある。
「はっはっは、聖書ときましたか」
「ぁ、例え悪かったですか」
基本的に、日本は多宗教の国だが、極楽や地獄に関しては、インドの仏教辺りが軸になっていた筈。そのくらいは、何となく知っている。
「いえいえ。大丈夫ですよ。老いも若きも、古きも新しきも、信仰も不信仰も、全ての集う場所ーーそれが、冥途筋ですから」
「冥途筋――え、冥途筋って、あの?」
上方落語の演目の一つに、「地獄八景亡者戯(じごくはっけいもうじゃのたわむれ)」というものがあり、その中に登場するのが冥途筋だ。
江戸落語では「地獄めぐり」と呼ばれるこの演目は旅噺というものに分類され、時事ネタを交えたギャグ、身振り手振りを交えた演出の多さなど、噺手の力量をかなり試される大ネタとして有名で、このネタを出来る師匠は片手で数える程しかおらず、下手をすれば死蔵ネタになってしまう恐れのある作品の一つである。
「そうだ。この先には三途の川があって、必然的に十王庁の庁舎に辿り着くようになってるって訳だ」
「すごい……」
「では、地獄めぐりとは行きませんが、十王庁への旅と洒落込みましょうか」
白詠さんの声に背を押されるように、丁禮と爾子の後に続く。
開けた道の両側には、往来を行き交っていた者達が、なんだなんだと興味津々の様子で見物している。
「お通り、お通り」
「お通し、お通し」
張り上げているわけではないのに、雑踏の中でもしっかりと往来の者達の鼓膜を震わせる双子の声音に関心してしまう。
「不思議。静かな調子なのに」
「あ?ーーあぁ、声か。あいつらに与えられた権能とも言えるかもな。あの双子の声は、必ず周囲に居る者達に届くようになってんだ」
「摩多羅の眷属ですからね」
摩多羅、という耳慣れない言葉に、私は目を瞬かせる。耳慣れない名だ。
「閻魔様の眷属じゃないんですか?」
「あぁ、すみません。その辺りの説明がまだでしたね」
白詠さんは申し訳なさそうに眉尻を下げる。
「今回貴女をお連れする十王庁は、簡単に言ってしまえば地獄の政府機関みたいなもので、地獄は十王庁に席を置く、十名の王達によって統括・管理されています。地獄は大変広大で、毎日無数の人間達が命を落として此処へ送られて来ます。とても一人では手が足りません」
確かに、それもそうだろう。冷静に考えてみれば、沢山の部下を抱えているにしても、閻魔大王一人だけで、無数の死者を管理するというのは土台無理な話だ。
「そこで、十名の王達が力を合わせ、地獄の各エリアと業務を管理しているんです。トータル的な部分を担うのが、閻魔大王。つまり、大王は総理大臣のようなポジションという事ですね」
「なるほど」
「まぁ、俺達が今から会うのは、王じゃねぇがな。王の下で働いてる補佐官の神だ。各地に点在する彼岸への接続ポイントと、この冥土筋の管理、亡者の入境記録を管理する任務を与えられた、な」
これから、神と相見える事になるのかと思うと、先程までとは違う緊張が身の内に走った。
神、と言われて真っ先に思い浮かんだのは、キリストだ。だが、当然日本の神となれば、あの姿とはだいぶ異なっているだろう。この国には数え切れない程の神が住んでいるとされているし、そうなってくると、これから会う神がどんな風体と性格であるのか、まるで想像がつかない。
「はい。ただ、この管轄を治めているのは、摩多羅様お一人ではありません。ーーちささんは、荼枳尼様をご存知ですか?」
「荼枳尼……狐の神様でしたっけ?」
「狐の精、人肉を喰らう魔女、夜叉の一種、何にしても、苛烈な女神だ」
確か、お稲荷様でその名を耳にした事があった気がするが、そんなおっかない女神であったとは、知らなかった。
「摩多羅様は、荼枳尼様を制御する、いわば抑止力のような存在なんです。荼枳尼様が鬼を統率し、摩多羅様が補佐をする。二神のお陰で、死者は恙無く彼岸へと渡る事ができる、というわけです」
「じゃあ、白詠さんは鬼なんですか?」
「いえ、僕は狐精です。元々は二神とは別の神の下についていたのですが、色々あり、今は摩多羅様の下についている状態なんです」
「なるほど」
聞いて納得である。
白詠さんは見た目からして人外感が漂っているが、妖怪というよりも、神々しさを感じさせるような印象が強かった。
「あぁ、見えてきました。あれが賽の河原と三途の川です」
正面を見れば、通りの終着点には河原が広がっており、その先には大河が横たわっている。
噂に名高き三途の川。川岸には石がゴロゴロと重なり、幾つもの桟橋の先には、舟と舟守の姿が見られる。一際大きく、長い橋が一つだけ掛かっており、桟橋や川の周辺には、沢山の亡者が集っていた。
「昔は、善人があの橋、罪人は浅瀬、大罪人は難所を、それぞれ通る事になってたらしい。だが、平安時代の末期からは、橋じゃなく舟で渡る事になった」
師匠の説明を受け、私は橋へ視線を投げる。
言われてみれば、橋の辺りには亡者が居なかった。
「今では、あの橋を通れるのは、獄卒と神、地獄を管理する者達のみなんですよ」
「へぇ〜。でも、罪人が無理矢理あの橋を渡ろうとしたりする事はないんですか?」
「もちろん、あります。けれど、当然理に従わぬ者には罰が下る。亡者が許可なく橋を渡れば、亡者の身は自然発火するようになっています。焼け爛れた身で、川の難所を渡るのは、想像を絶する苦痛だそうですよ」
白詠さんの語る橋の秘密にゾッとした。
魂を裁定する場所へ繋がっているのだから、当然といえば当然だが、閻魔のお膝元での反抗は、ものすごくハイリスクだ。
「まぁ、俺達が今から通るのは、あの橋な訳だが」
「えっ」
「安心してください。丁禮(ていれい)と爾子(にこ)が先導している限り、貴女の身が燃え上がる事はありません」
言うなり、白詠さんは師匠に咎めるような視線を送った。だが、師匠はどこ吹く風といった様子で、ひたすら双子の背中に視線を向ける。
「「御渡り、御渡り」」
橋の前で一度止まった双子が、声を揃えて告げると、一度、橋が紅く発光した。
「さぁ、ここを渡れば十王庁の正門です」
白詠さんに促され、橋を渡り始める。
京都の渡月橋よりもさらに長く続く橋を、双子に先導されながら黙々と渡っていく。
左右を見れば、無数の舟が川を渡って私達と同じ方向へ向かっているのが見て取れた。
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