393人が本棚に入れています
本棚に追加
キンと冷えた空気の中、澄んだ歌声とギターの柔らかな音色が疲れきった葛城の心に染み渡る。
もう一度あの青年の歌が聞きたくなり、もしやと思って同じ金曜日に出かけてきたらビンゴだった。
前より少しだけ近づいて聞いていると、青年が寒そうに首を竦めた。よく見ると、指も赤くなっている。
曲と曲との間に手を開いたり閉じたりしていることから、寒さが相当辛いと伺える。
こんなに寒くても彼の歌を聞きに来ている人がいる。今日来ているのは大学生くらいの背の高い男とOL風の女の子の2人だけだ。
背の高い男は青年の指に気づくと、演奏の邪魔をしないようにそっと場を離れ駅に向かって歩き出した。そして次の曲が始まった頃、両手にテイクアウトのコーヒーを持ちながら戻ってきた。
その男は「いちか」と彼を呼び、そう呼ばれた瞬間、今までうつ向いていた青年が嬉しそうに顔を上げた。男に笑いかける横顔が誰かを連想させるが、誰だろう。
「いちか」というのは、名前だろうか?
聞きなれない響きだから、あだ名なのかもしれない。
いちか、いちか、イチ……。
耳慣れない音の中に、懐かしい名前を見つけた。
そう言えばイチの本名も知らないままだ。
最初のコメントを投稿しよう!