1話 暖かな春の日に

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1話 暖かな春の日に

暖かい春の日。 柔らかな桃色の花をたくさんつけた桜並木が どうしても沈んでしまう僕の心を励ましているように見えました。 長い道。 持参した荷物といえば、風呂敷に包んでしまえるだけの 僅かな着替えと母の形見のかんざしひとつ。 「早く歩け。予定の時間よりもう10分は過ぎてる」 「はい、すみません」 先を歩く小太りの僕の遠縁の叔父、笹賀屋さんは 桜並木に気を取られた僕に声を掛けては、せわしない足取りで 石畳の道をどんどんと歩いていきます。 僕は生田サトシ。 先月15歳になったばかりです。 5年前に父を亡くし それから女手一つで僕を育ててくれた母も2週間前 肺を患って死にました。 母は、助産婦として自宅で何人もの赤ん坊を取り上げ 貧しいながらも母と二人、何とか暮らしていけるだけの稼ぎはあったのですが 病に倒れてからというもの、収入は殆どなくなってしまい 借金だけが残りました。 身内が母しかいなかった僕は、遠縁の叔父の元に引き取られることになったのですが 叔父の家は子沢山で生活も苦しく その上借金を背負った僕の面倒を見るのは無理だと言って 叔母が知り合いから住み込みでの仕事を見つけてきてくれて 僕は今日からそこで働くことになったのです。 「ああ、ここだ。ほほーう、話しに聞いていたよりも立派なお屋敷だ」 長いレンガ造りの壁のが囲む大きな洋風のお屋敷の前に立ち止まった叔父さんが 高くて大きな門扉を見上げながら言いました。 そして。 「ここが今日からお前がお世話になる一ノ瀬財閥の主のお屋敷だぞ。  くれぐれも粗相のないようにな」 僕を振り返って、厳しい顔でそう告げたのでした。 桜の咲く暖かい春の日。 この日僕は、これまでとは全く違う人生の一歩を踏み出すことになったのでした。
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