【7】

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【7】

 夕方になっても雨は止まず、窓の下をたくさんの傘が通り過ぎていった。シフトの終わり近くになって、白いガラスドアの向こうに長身のシルエットが立った。  千春は一瞬、誠司が来たのかと思った。  けれど、傘を畳んでドアをくぐってきたのは有栖川だった。 「なかなか()まないね」 「あの、運転手さんは……?」 「今日はもう帰ってもらった。たまには自分で迎えに来たかったしね」  仕立てのいいスーツの肩をハンカチで軽く叩く。その腕の角度が誠司に似ていると思った。  立ち姿や、全体的な雰囲気、背が高く肩幅もあるのに、長い手足とバランスの取れた頭身のせいで実際よりも細身に見えるところ、どことなく優雅に見える仕草、上質なスーツが羨ましいほど似合うところ……。有栖川は誠司に似ている。 「そろそろ行けそうかな?」  優しく微笑まれて、視線を落とした。  誠司に似ているから、千春はこの人と食事に行くのだろうか。  傘を差して近くのコインパーキングまで歩く。それまでの二回は運転手付きの黒塗りの高級車が迎えに来たが、この日は白いメルセデスが同じ場所で待っていた。  ハンドルを握るのは有栖川自身だ。後部座席ではなく助手席に座らされて、また誠司のことを思い出す。  関節のしっかりした肉のない長い指……。有栖川は指の形も誠司に似ている。  千春はハンドルから目を逸らし、フロントガラスをじっと見つめた。ガラスに当たる無数の雨が丸い粒になって散ってゆく。薄墨に滲んだ景色が、ゆっくり流れ去る。  目的のヌーベル・シノワは、広大な都立公園を見下ろすラグジュアリーホテルの一階にあった。最上階にある本格中華の老舗が出がけた新しいコンセプトの姉妹店で、オープン前からマスコミやインターネットで何度も取り上げられていた話題の店だ。  広い店内の、入り口から一番遠い窓際の席に案内される。照明を抑えた、月明かりほどの明るさの中を、夜の湿原を泳ぐように注意深く進んだ。有栖川が軽く千春の背に手を添えて、不安な足元のおぼつかなさを助けた。  目が慣れてくると、評判以上に美しい内装に息をのんだ。  中華には珍しく、ブルーを主体にした幻想的な空間が、夜空のようにも海のようにも見えて、淡い光が客席を包んでいた。深く透明な群青の中に、小さな灯りがいくつも浮かんでいる。
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