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犬の選択
「犬井君、やってくれたねえ」
泊り込みで『あぶアナ』の原稿を持ち帰った翌日、Mはそう言った。
忘れっぽい犬井は、なんのことかと逡巡した。
「君が先生に挨拶した際の一部始終は聞かせてもらったよ。
アーニャとターニャ君はもう大喜びでねえ。大金星と言えるな」
「はあ、無事に原稿を持ち帰ることができました」
「……ご苦労。いや、それよりも先生のご機嫌が麗しくてなあ」
「それは何よりです。僕は泊り込んだだけですけどねえ」
「そうか、君は天然なんだな。そういうところが気に入ったのかもな」
「あの、僕はほめられてるんでしょうか。だったら嬉しいです」
「そうだな、少なくとも先生は絶賛しているようだ」
「なにしろ、これから先生が当社に来るようだからな。異例だ」
「……え? 先生が会社に? 何の御用で?」
「君に会いたいそうだ。こういう例は初代担当以来だよ」
「はあ……」
「君は先生に対してよほどの殺し文句をぶちかましたようだね」
「はい? ……普通に会話しただけですけど」
「それだよ犬井君。二代目以降の担当は先生と普通に会話できなかった」
「先生を敬愛し、尊敬するあまり、へりくだりすぎていたんだ」
「……はあ、そういうものですか」
「あの杉山など、おべっかを使いすぎて首になった。惜しかった」
「先生は一人の女性として、一人の男性と普通に会話したかったんだよ」
「売れっ子といっても所詮はさびしい独身女性さ」
「その鬱憤を漫画に捧げることで彼女は成功し続けてきたんだ」
犬井はただ、黙ってMの独白を聞いていた。
「思うに、先生は犬井君を愛してしまったようだな」
「……ほえ?」
「覚悟はいいかね? 彼女の求愛を受け入れるか、拒否するか」
真顔で二択を迫るMの表情で、冗談ではなさそうだと犬井は理解した。
「あの、俺彼女いるんですけど」
「かつて、先生の求愛を拒否した担当は某大手出版社を去った」
「彼女にはそれだけの影響力と人脈があるんだ、恐ろしいことに」
「あの初代担当は今、どこで何をしているのやら……」
「君は彼女を捨てて億万長者の嫁を手に入れ、漫画業界の重鎮になれる」
「えっと、それって今日、決めなきゃいけないんですか?」
「ほう、迷う時間がほしいということは脈があるということだな」
「ちょっと外の空気吸ってきます」
そう申し出た犬井は鷲プロには戻ってこなかったという。
(完)
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