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前編
おろおろとした気配を背中に感じたが、アザミは振り向くことなく、苛々とティーカップを持ち上げた。
しずい邸の片隅にある相談室と銘打たれた部屋には、アンティークなテーブルとソファが配置され、給湯設備も整っている。
アザミは手ずから淹れた紅茶を舌に乗せ……その熱さに眉をひそめた。
「あの……アザミさま」
低く、やさしげな声がアザミを呼ぶ。
アザミ、とこの男は口にするが、厳密にはもう、アザミはアザミではなかった。
般若、という男衆の一員として、名を捨てた存在だ。
だから、というわけではないが、アザミは頬杖をついたまま男の声を黙殺する。
「アザミさま」
もう一度、呼ばれて……アザミは不機嫌な表情で振り向いた。いまは般若の面をかぶっていないので、アザミの顔を見れば怒っていることが知れるだろう。
アザミの右斜め後ろには、巨躯の男が立っている。
剃髪がスタンダードな怪士面の男衆の中で、唯一蓄髪がゆるされている男。
アザミ付きの、アザミのためだけの男衆だ。
逞しい体をこころなしか小さく縮めて、怪士が頭を下げた。
「勝手に外出をして、申し訳ありませんでした」
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