正体

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 カーン、カァーン……と鐘の音が響き渡った。午後四時。茜色に染まる空に、眩い太陽。カラスがどこかで鳴いていた。  学校帰りであるため制服を着た香耶は、鐘の音とともに公園に立ち入った。そこは相変わらず誰もいなくて、ひどくもの寂しい。カラカラ、と枯葉が音を立てて舞っていた。  いつものように錆びついたブランコに腰掛けると、深呼吸をした。……緊張していて、少し息苦しい。それでも必死に平静を装い、乾いた唇を開き、震わせた。 「高里、さん」  ――賭けだった。どうすれば〝彼〟――高里亨に会えるのか、わからなくて。だけどそれでも、どうしても会いたくて。話をしたくて。だからこうして、ない頭を絞って、いつも会っていたこの公園に来た。名前を呼んだら来るかもしれないと、そんなかすかな希望を抱きながら。  果たして――香耶は見事賭けに勝った。  いつの間にか、それこそ何もない空間に突然現れた高里亨に、香耶は少しだけ口元を緩めた。「久しぶり」  彼は一切表情を緩めることなく、感情を排した面持ちで唇を震わせた。「――久しぶり」  さぁ、と、風が吹いた。髪が舞い上がり、煩わしい。ぺいっと後ろにやったけれど、結局顔の前に戻ってきて渋面を浮かべた。本当に髪を切ったほうがいいかもしれない。 (まぁ、それはあとで考えるとして……)  香耶は高里亨を見上げた。記憶にある姿――香耶が小学校四年生のころの――よりも若々しく見える。時が経ち、すでに死人である彼との差が縮まったからか、はたまた別の理由か。  そんなことを思っていると、彼がくしゃりと顔を歪めた。 「――知ったんだ」  何を。それはすぐに察せられた。彼が――高里亨が、香耶を助けた人物であることだろう。「……うん」と、ためらいがちに頷いた。彼の表情が、あまりにも苦しげで、悲しげで。望まぬことをしてしまったのかと思い、後悔が波のように押し寄せてくる。  ……沈黙が、二人の間に落ちた。カラカラ、と枯葉が音を鳴らす。カラスの鳴き声がやけに大きく聞こえた。  気まずい。だけどふっ、と、再会できたら話そうとしていたことを思い出して、時間が限られていることに焦り、慌てて口火を切った。 「あの、話したいことがあって――」  そうして、香耶は話し始めた。葵との衝突があったあと、最後に彼と会った日の翌日からのことを。  葵とは、もう関わらなくなった。話しかけられても、無視。傷つけてしまうのはわかっていたけれど、一旦口火を切ってしまえば口から溢れるのは罵倒の言葉ばかりになりそうだから。そんなことをしたって結局気持ちが晴れることはないだろうし、話すだけ無駄だ。周りのクラスメイトもそんな香耶を責めなかったから、しばらくはこの関係なのだろう、と思う。いずれ吹っ切れる日が来るのかは、わからない。香耶はただ、生き続けるだけだ。  葵との関係が解消されたからか、他の人も話してくれるようになった。友人と言える人も、たぶんできた。茉奈佳たちのグループとはまた別の人たちで、まだ友だちだと断言はできないけれど、きっとあの子たちとはこれからも付き合っていけると、香耶は思っている。  茉奈佳とはあまり話さなくなった。だけど時折話すし、意外と頭のいい彼女に教えてもらうことも多いから、ちょうどいい関係を築けていると思う。  それはたぶん、茉奈佳も思っていることで。  あるとき、彼女は言った。  ――あんたは依存しがちだから、これくらいがいいんだよ。あたしなんかに依存すると、大変なことになるからね。  そうして婀娜(あだ)っぽい笑みを浮かべていた。  ――話し終わると、「そっか」と、こちらを見下ろしてくる彼が呟くように言った。どこか安堵した響きを持つ声色。「うん、そう」と頷く。  彼はゆるりと微笑みを浮かべた。 「……君が幸せなら、良かったよ」  それは、心の底からのものだとありありと伝わってくる表情で。どうしてだかはわからないけれど、ツン、と鼻の奥が痛くなる。目頭が熱くなる。  そっと目を伏せた。足元。真っ黒な影が彼の足から伸びている。それなのに、彼はもう死んでいて。幸せになれなくて。  ――ひどく胸が苦しくなった。彼の人としての生を奪ったのは、香耶だ。それを突きつけられて、申し訳なくなって……。 「ねぇ」と口を開き、彼を見上げた。「ごめんなさい」と謝ろうとした。「わたしのせいで死んでしまって」と。だけどぶつかったのは予想外に真摯な黒い瞳で、香耶は思わずたじろぐ。居心地が悪くて、足をじり、と動かした。沈黙がおりる。ふと、彼との会話が思い起こされた。かつて、二度目に会った日に言われたもの。  ――自信を持てばいい。〝人殺し〟なんかじゃない、人に生かされたんだって。  ――……それを、あの人が望む?  ――うん。――絶対に(・・・)。  今思えば、知らないうちに当人に確かめていたんだと気づく。だから絶対だと、彼は言い切れたのだろう。それならば、自信を持つのが彼自身の願いなのでは? 彼は言っていた。幸せになってもいいって。他でもない、彼自身が。  視界が滲んだ。複雑な感情が胸中で渦巻く。  謝罪の代わりに、別のことを問いかけた。 「どうして、ここにいるの? 死んでいるのに」  すると彼は目をぱちくりさせ、しばらくしてふっ、と笑いながら言った。 「君のことが気がかりだったから。詳しいことは違反になっちゃうから言えないけど、ずっと僕の助けたあの子はどうしているのかなって、気になっていたんだ。それで見かねたお偉いさんがどうにかこうにかしてくれて、夕方――誰そ彼時(・・・・)だけ、こうすることを許可してくれたってわけ。カモフラージュに少しだけ若返らせてくれてね」 「……そうなんだ」と返した。正直、彼に胸を張れる人生を生きてきたとは言いがたい。自分の殻にこもって、ひたすら鬱々としていて、下を向いて生きてきていた。罪悪感が胸に巣食う。  そんなことを思っていると、「本当に良かったよ」と彼が言った。 「君が前を向いて生きてくれるようになって。雰囲気も、見違えるように変わった」 「……ありがとう。だけどそれは、あなたのおかげだから」 「僕はただ、きっかけを与えただけだよ」  そのきっかけが重要だったのだと思う。彼と出会わなければ、遠からず香耶は自殺でもしていただろう。そんな妙な自信が香耶にはあった。……あまり良くない自信だけれど。  風が吹いた。巻き上がる黒髪。カラカラという枯葉の音。冷たい風が制服の中に入り込み、肌を撫で上げていく。  しんみりとした沈黙。そっと息をついた。彼が移動し、いつもの定位置である隣のブランコに座った。キィ、と錆びついた音。 「ありがとう」と、夕焼けを見つめたまま、呟くように言った。  彼が苦笑いした。 「また?」 「うん。本当に感謝してるから。六年前わたしを助けてくれたことも、今回前を向かせてくれたことも。あなたがいなきゃ、きっとわたしの人生はもっと色褪せていたから。そもそも死んでいたし」  風が二人の間を駆け抜けた。彼は何も言わず、香耶の言葉に耳を傾けてくれている。そのことに口元を緩めながら、香耶は続けた。 「わたし、幸せになるよ。きちんと幸せになる。だから、見てて」 「うん」と頷かれた。「見てるよ、ずっと」  そのことに安堵の息をついたときだった。  ざぁっ、と、今までにないくらいの突風が駆け抜ける。木々の梢が揺れ、カラカラ、と音を立てて枯葉が舞った。「じゃあね」と、声がした――ような気がした。  ハッ、と香耶はそちらを向く。空のブランコが、キィキィと前後に揺れていた。 (……もう、会えないんだろうな)  そう思いながら、香耶はたっぷりとその場の空気を味わうと、鞄を拾ってブランコから立ち上がった。黒髪をなびかせて、公園の出口へと向かう。  ……少しだけ、名残惜しいけれど。それでも香耶は振り返ることなく、道路へ足を踏み出した。  二つ並んだブランコは、片方だけ、小さく風に揺れていた。
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