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「あっという間にその噂は広がって……わたしは、〝人殺し〟になった」
ブランコに座り、ぼんやりと正面を見つめながら、香耶はそう言う。〝人殺し〟。確かにそうだ。罪のない人の命を奪う結果となったのだから。たとえ香耶本人が殺したのではなくても、その責任は重い。
横を向く勇気はなかった。彼がどんな表情をしているのか、わからなかったから。本人の言っていたように、受け入れてくれているのか、拒絶しているのか。確かめる勇気は、ない。
どこからかカラスの鳴き声が聞こえてきた。ざわざわと揺れる梢の音。あたりは静寂に包まれていた。
……ややあって、キィ、とブランコが軋む音がした。隣から。どきりと心臓が跳ねる。
(やっぱり……ダメ、かな)
受け入れられなかったから、この場から立ち去るのだろうか。せめてもの優しさで、香耶に何も告げることはなく。……少し、寂しい。
きゅ、と鞄を抱きしめる力を強めた。やはり、葵以外にはいないのだ。香耶の犯した罪を知りながら、それを受け入れてくれる人なんて。
(葵……)
彼女に会いに行きたかった。抱きしめて、優しく慰めてほしい。いつものように「大丈夫だよ、香耶ちゃん」と囁いてほしい。「私は絶対に香耶ちゃんの味方だから」その言葉だけで、なんとか生きていかれる。
あの日以来、周囲に拒絶され続けた香耶にとって、葵が世界のすべてだった。モノクロの世界で、彼女だけが色をまとっている。
……生きている意味なんてないけど。それでも死への一歩を踏み出せず、ここにいるのは、彼女と離れたくないからかも。そう思った。
そのとき、「なぁ」と声が降ってきた。どうやら彼はまだ残っていたらしい。その声には怒りが滲んでいて、ああ、信じていたほど彼は優しくなかったのだな、と思った。香耶のことを許せなくて、こうして暴言を浴びせようとしてくるのだから。
胸の内にあった期待が萎んでいく。代わりに心を占めたのは、失望だった。皆、香耶が人殺しだと知ると蔑んでくる。関わりたくないと背を向けてくる。
――こんな世界、もう嫌だ。
視界が滲んだ。カラカラと枯葉の音。死んでしまえたらいいのに。
そう思ったときだった。
「おまえ、ふざけんなよ! 何が、『わたしのせい』だ! そんなんじゃ、死んだやつも浮かばれねぇよ! 悲劇のヒロインぶるんじゃねぇ!」
え、と声を漏らして、香耶は顔を上げた。目の前に立つ彼は、確かに怒っている。だけど、それは香耶が〝人殺し〟だからじゃなくて、別の理由で。思わず目をぱちくりさせた。
彼は言葉を重ねる。
「そもそも、そんなんで〝人殺し〟ってなんだよ! ありえねぇだろ! 言い出したのは誰だ!? 狂ってやがる!」
それからもドバーッと勢いよく彼は暴言を吐く。吐き続ける。けれどその中には一度も、香耶が〝人殺し〟であることを責めるものはなくて……。
何年ぶりだろう。こんなふうに面と向かって叱られたのは。両親からは腫れ物扱い、葵からは優しくされて、それ以外の人からは〝人殺し〟だと蔑まれる。それだけの日々で、きちんと叱られたのはものすごく久しぶりだった。簡単には思い出せないくらい。
呆然とそれを受け止めていると、しばらくして不満が尽きたのか、彼が口を噤んだ。どことなくすっきりとした表情だったけれど、香耶を見た途端顔を曇らせた。バツの悪そうな表情で、不安げな瞳でこちらを見つめてくる。
……沈黙が、あたりに満ちた。先ほどまでの比ではないくらい、居心地が悪い。「えっと……」と声を出したけれど、そのあとが続かず、結局黙り込むハメになった。時計をちらりと見れば、四時二十三分。結構な時間話していたようだった。葵以外とはかなり久しぶりの会話で、だからこそ話しすぎていたみたい。こんなに長い時間人と対面したのは、いったいいつぶりだろう?
(……って、そんなことはどうでもよくて……)
ちょっとだけ現実逃避をしてしまっていた。あまりしたくはないけど香耶は頭を振って、きちんと言われたことに向き直る。彼が叱ってきたところは、たくさんあった。甘えているとか、悲劇のヒロインぶっている、とか……。香耶自身はあまりそうだとは思わなくても、もしかしたら本当にそうなのかもしれない。悲劇のヒロインぶっているのかも。
よく、わからないけれど。
(そう、だとすれば……)
――どうすれば良いのだろう? 直したほうがいいのはわかるけれど、果たして本当に直すべきなのだろうか? 直すとしても、いったい何をすれば直る?
頭の中でいろいろと考えるけれど、元来考えることが苦手な質だ。すぐに思考停止に至ってしまう。
……そうして熟考していると、「あの……」と声がした。ハッ、として、香耶は慌てて考えるのを止めると顔を上げた。気まずそうに、申し訳なさそうに彼が立っている。完全に存在を忘れてしまっていた。あまりにも自分が情けなくて、そっと視線を逸らす。こんなふうに人と関わったのは久しぶりだから……忘れてしまっても仕方ないと思う。たぶん。きっと。
沈黙が居心地悪くて、どうしようか悩む。話しかけるべきだろうか? だけど何の話をすれば? それとももう帰ってしまったほうが良いのだろうか? ……わからない。そう思っていれば、沈んだ彼の声が降ってきた。
「ごめん。僕なんかに言われたくない、よね……」
視線を戻せば、眉を下げ、苦しそうにも悲しそうにも見える面持ちが目に入った。香耶は慌てて声を発した。
「別に、そんなことは……。……ただ、えっと、その……そんな自覚、なくて……だから、直したほうがいいのか、直さなくてもいいのか、な、悩んで……?」
しどろもどろになりながら、言葉を重ねる。けれどもう、自分でも何を言っているのかわからなくなっていた。
(わたし、何を言いたいんだろ……)
判断はつかないものの、せっかく話すきっかけができたのだからと、とりあえず思いつくままに口にしていく。あなたは悪くないとか、そもそも悲劇のヒロインぶってるのか? とか。どもりながら。
(は、話し方がわからない……)
ここ何年も、話し相手は葵だけだった。けれど彼女と話すときだって、香耶はあまり口を開くことなく、ぽつぽつとそのときふと思ったことを一言二言口にするだけだった。こんな〝まともな〟会話の仕方なんて、忘れてしまっていた。
どうしよう、と脳内が大混乱に陥って、パニックになっている。ヒロインという単語と変なふうに結びついたのか、頭の中では何故か目の前に立つ彼がシンデレラの衣装を着ていた。意外と似合っていて、会話の最中なのに思わず笑ってしまう。なんとなく清純なシンデレラじゃなくて、悪役の姉みたいな雰囲気。高笑いしていそう。
言葉を紡ぐことも忘れてクスクスと肩を震わせていれば、「ど、どうしたの……?」と言われた。ぎょっとした様子で、理解しがたいものでも見たような目を向けられた。それに反論したかったけれど、……無理。彼の顔を見た途端またシンデレラ姿の彼が脳裏に浮かび上がった。しかも今度は高笑いもして。ドレスならワルツでも踊りそう、とふと思ったら、どうしてかワルツではなくタップダンスを踊り始めた。意味がわからない。
あまりにもおかしくて、馬鹿馬鹿しくて、苦しくなりながら脳内で再生されるタップダンスを見て……やがてひとしきり笑って呼吸を整えると、目の前の彼は不服そうな面持ちでこちらを見ていた。確かに、いきなり顔を見たら笑われるなんて不機嫌になるものだろう。だけどドレスでタップダンスを踊るのは反則だ。笑うしかない。
……つい、思い出し笑いをしてしまう。ニヤける口元をなんとか引き締めて――たぶんできていないけど――香耶は彼と向き直った。「ごめんなさい」と謝る。
「ちょっと、面白くて……」
また、笑いがこぼれた。今日だけで一生分笑った気がする。どうしてだかひどく心がぽかぽかして、安心できて、幸せだった。
すると彼も少しだけ笑った。ほっとしたように。
「まぁ、君が楽しそうならいいよ。――やっと笑ったね」
それは心の底からの言葉なようで。嬉しそうな笑顔に、香耶までつられて思わず口元を緩めた。あの日以来めったに笑っていなかったためか、頬の筋肉が少しだけ痙攣している。それでもさほど嫌な気分ではなかった。疲れなんて気にならない。
どことなく和やかな雰囲気になっていると、どこからか鐘の音が聞こえてきた。時計を見れば、四時三十分。あれ? と、首を傾げた。鐘が鳴るのは一時間おきだったはずなのだけれど……。
しかしその疑問はすぐに立ち消えることとなった。鐘を耳にした途端、「あ……」と、目の前の彼が声を漏らしたのだ。それはどこか悲しそうな、寂しそうな、痛々しいもので、どうしてだかはわからないけれど、胸が締めつけられた。
彼の様子にも、自分自身の心にも香耶が戸惑っていると、彼はゆるりと微笑んだ。もの寂しげな、頼りなさげな笑顔で。
「……じゃあ、帰らないといけないから。またね」
「え、あ、うん。また……」
突然の別れにちょっとだけ困惑した。先ほどまでは自分から帰ろうかと思っていたのに、彼のほうからそうされると、少し……モヤモヤする。
(なんだろ……?)
――よく、わからない。自分の気持ちが、わからない。長い間、人とこんな関わり方をしなかったから?
その答えもわからなくて、また軽くパニックに陥っていると、公園から出ようとしていた彼がくるりと踵を返してこちらに戻ってきた。え、と思っている間に目の前にやってきて、その両手が香耶の両の頬を包み込む。
かなり近い距離に、彼の瞳があった。真っ黒な瞳。なにか……そう、懇願に近い感情が見え隠れしている……。
(懇願?)
何を、望んでいるのだろう。彼は。そんな疑問がふと顔をもたげた。
だけどそれを深く考える前に、彼は優しく目を細めた。
「君は幸せになってもいいんだよ」
「え……」
幸せになってもいい。それは、どういうことだろうか? 香耶は〝人殺し〟で、幸せになっちゃいけない人種であるはずなのに……。
そう戸惑っている間に、彼は「じゃあね!」と今度こそそう告げると、ぴゅっ、と風のような早さで公園を出て行った。
あとに残されたのは、困惑する香耶だけだった。
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