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その日、香耶は学校が終わると、そそくさといつもの公園に向かった。茜色の空で黒いカラスが鳴いている。カーン、カァーン……と、鐘の音が響き渡った。長く、物悲しい余韻。
公園に着くと、今日は〝彼〟のほうが早く来ていた。ブランコに座ってぼうっと空を見ていて、香耶に気がつくと子供らしく破顔する。「昨日ぶり」というこれまた昨日と同じ挨拶は、どこか嬉しげ。
香耶も頬を緩めながら言った。「昨日ぶり」
昨日やその前と同じように、彼の隣のブランコに腰掛けた。キィ、と錆びついた音。それが消えるや否や、「あのね――」と香耶は口を開いた。今日のできごとを話していく。たとえば葵と登校したこと、隣の席の子に挨拶をしたこと、葵と昼食をともにしたこと、隣の席の子が教科書を忘れたから、席をくっつけて一緒に授業を受けたこと――。それらすべてがここ何年も経験していなかったこと、もしくはたまにしかやっていなかったことだから、どれも新鮮で……それゆえに自信がついていた。クラスメイトに〝人殺し〟だとは思われているようだけど、話せばわかる人もいるんだって。
事実、隣の席の子――実は名前をわかっていない。どうにかして確認しないと――は、香耶が授業中につまづいたところがあると、授業後に親切に教えてくれた。ぱっと見、いわゆるギャルっぽいキラキラした子だが、人は見た目によらないらしい、と改めて認識することになった。彼女の優しさはとても熱くて、だから自然と笑うことができた。
興奮気味に話していると、「そっか」と、彼が淡く微笑む。嬉しげで、幸せそうだけど――どこか苦しげ。ほんのわずかだが眉根が寄っている。
「どうしたの? …………あ、そっか。こんな話ばかりされても、嫌、だよね……」
つい、と視線を足元へ向けた。はしゃぎすぎて、彼の気持ちなど一切考えることなく、ただ気持ちの赴くまま話してしまっていた。こんなことばかり話されても、彼にとってはいい迷惑だろう。興味のない話なんて……。
そう思い、反省していると、「いや、そうじゃなくて!」と彼が叫んだ。ちらりと彼の方を見やる。
「――……変わったなって思って。だから今まで君が幸せになれていなかったのが、すごく悔しくて。それだけだよ」
そう言う彼の表情は、痛みをこらえるかのように歪んでいた。
それを見て、香耶の胸も苦しくなる。ぎゅ、と胸元で手を握りしめた。今日、些細な行動で変わり、色づき始めた世界。だからこそどうして今まで〝人殺し〟と蔑まれなければならなかったのか、苦しい思いをしなければならなかったのか、と思ってしまう。八つ当たりをしたくなる。
シン、とあたりが静まり返った。カラカラ、と空虚な枯葉の音。まとわりつく髪が煩わしいから、いっそのこと切ってしまいたい。心機一転に。そんなことを思っていると、「それでも、」と、彼が口を開いた。
「たぶん、それが人生っていうものなんだろうね……。間違いながら、遠回りしながら、それを糧にして自分という個を確立させていく。……えーっと…………ごめん。なんの慰めにもならなくて」
彼はそっと目を伏せた。夕日を受けているから赤みを帯びているはずのその顔色は、異様なほど白くて。……たぶん、それくらい心配してくれている。
その気持ちがくすぐったくて、香耶は「ありがとう」と口にした。彼が目を見開いてこちらを見つめてくる。誰かが優しくしてくれている。慰めてくれる。たったそれだけで、香耶の心は救われた。
さぁ、と風が吹いた。彼は驚いた顔のまま、じっと香耶のほうを見ている。だけどその時間があまりにも長すぎるような気がして……香耶は首を傾げた。どうしたのだろう?
問いかけようと口を開いたとき、彼は満面の笑みを浮かべた。心底嬉しそうに。頬にできたえくぼが愛らしかった。
「それなら良かったよ」
キィ、と、ブランコが軋んだ。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
変わろうと決意して、実際に行動し始めて、二週間が経った。香耶は毎日のように葵と登校して、学校では隣の席の子――茉奈佳と言うらしい。座席表で調べた――と過ごした。茉奈佳はどちらかと言うとサバサバした子で、交友関係も広く、他の友人と過ごすこともあったが、そうでないときは一緒にいてくれた。友人を紹介してくれたこともある。
そうして放課後は一人で下校し、帰りに公園に寄った。すると毎日〝彼〟はいて、いつも香耶のその日のできごとを話していた。友だちが増えたこと、廊下ですれ違った先生にも「明るくなったな」と言われたこと。そのたびに彼は我がことのように喜んで、笑ってくれた。
ただ――いつも話してばっかで申し訳ないから、ということで彼の高校での話も聞こうとしたのだが、そのたびに彼は去っていった。まるで触れられたくないことのように。そのことが不思議だったけれど、その気持ちは香耶にもわかるから、数日後には自然と訊かなくなっていた。
彼の謎めいたところは他にもある。名前を聞こうとしたのだが、はぐらかされたのだ。どうしてだかは、わからない。だけどこれらのことから、結果的に、出会ってから二週間が経ったにもかかわらず、香耶は彼のことをほとんど知らなかった。
(どうして、だろ……?)
詮索するのはあまり良くない。そうわかっていても、香耶はふとしたときに彼のことを思い出し、考えてしまう。優しい彼。〝人殺し〟じゃないと言ってくれた彼。そんな彼がどんな人生を歩んできたのか気になって、ついぼうっとしてしまうのだ。
はぁ、とため息をつき、空を見上げた。放課後。高校から駅までの道のり。ところどころ浮かぶ雲が夕日を受けて赤やオレンジに染まっていた。だけど右のほう――西に視線を向ければ、灰色の雲がある。今朝の天気予報通り、雨が降りそう。
そう思って、鞄の中にある折りたたみ傘がきちんとあるのかさぐって……。
「あれ?」
立ち止まり、鞄の中を覗き見た。いつも折りたたみ傘を入れているところがぽっかりと空白になっている。
「え? え?」
どこかで出していたっけ? それとも忘れた……? と考えたところで、はっ、と思いだす。下校をするために机の中に入れていた教科書をしまう際、鞄の中から出していた気がする。机の上がぐちゃぐちゃだったから、横のフックにかけたような。曖昧だけれど、たぶんそう。そんな気がする。
香耶は鞄を閉じると、そのままくるりと踵を返して高校へ戻り始めた。足早に。急がなければ雨が降ってきてしまう。
まだ半分ほどしか進んでいなかったため、数分後にはあっさりと学校に着いた。部活動をしている者が多く、あちらこちらから掛け声が聞こえてきていた。合唱や、楽器の音も。それらを横目に、香耶は昇降口でスリッパに履き替えると、呼吸を整えながら自分の教室――一年三組に向かった。四階にあるため、着いたころには軽く息が上がっていて、太ももが重たくなっていた。もうちょっと運動したほうがいいかもしれない。
そんなことを思いながら廊下を進んでいると、まだ残っている生徒がいるのか、教室からはきゃらきゃらとした女子の話し声が聞こえた。入ろうか迷って……ふと、このまま帰っては今日は彼と会えなくなってしまうと気づき、香耶はそっと扉に手をかけた。横にスライドさせようとした、そのとき。
「――それにしてもさ、どうして茉奈佳はあの子と話すの? ぶっちゃけ鬱陶しいじゃん? あたしたちに構わないでよね、本当。目をつけられちゃう」
「わかる〜。今まで陰キャだったのにさ、急に話しかけてきて。本っ当にもうイヤ。蹴飛ばしたろうかな」
「それいい!」
手を、止めた。それはつい先日、茉奈佳に紹介された友人たちの声で。ズキリと胸が痛んだ。
――鬱陶しい。そう思われているなんて、ちっとも気がつかなかった。相手も友人だと思っていてくれていると、勝手に判断していた。だけどよく考えてみればわかることで。香耶のような今まで一人ぼっちだった暗い少女が、突然彼女たちのようなキラキラしたまさに女子高生! と言える子たちのグループに入ってきて、なにか思われないはずもなくて。
目の奥が熱い。今すぐ泣いてしまいたくなる。公園に行って、〝彼〟に慰めてもらいたい。
そう思っていると、「だってさぁ、」と声がした。茉奈佳のもの。
「可哀想じゃない? あの子って――
――ぜーんぶ知らないんだよ? 流石に気の毒じゃない?」
それを耳にした途端、「え」と、香耶は思わず声を漏らした。茉奈佳が放った言葉が、信じられなくて。信じたくなくて。
――世界が音を立てて崩れていった気がした。
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