7人が本棚に入れています
本棚に追加
/10ページ
……いつの間にか雨はやんでいた。
香耶はびしょ濡れのブランコに座り、宙を見つめていた。カーン、カァーン……と、鐘の音が聞こえてくる。のろのろと視線を動かして時計を見やれば、五時。日はすでに暮れ、ぽつぽつと街灯がついていた。
ぼんやりとあたりを見回し、首を傾げる。
(彼は……いつ帰ったんだろ?)
そこらへんがひどく曖昧だ。普通、抱きついて泣いていたのなら、帰ったのがすぐわかるはずなのに。
不思議に思いながらも、香耶はびしょ濡れになった鞄を持ち、立ち上がった。ちらりと中を見れば……思ったよりは濡れていない。もちろん水没はしているけど、無事な部分もあるから、良しとしよう。そう思わないと今後のことに泣いてしまいそうだ。
はぁ、とため息をつき、重たい足取りで歩き出す。暴風雨のような激情は、すでに落ち着きを得ていた。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
翌日、香耶は見事風邪をひき、学校を休むハメになった。けれど、家に誰もいない夕方、一人で公園に向かう。熱は少しだけあるが、我慢できないほどではなかった。
カーン、カァーン……と鐘の音。四時。それが鳴り響くと同時に、香耶は公園に着いた。いつものブランコに腰掛けると、今日もまた、〝彼〟がやって来た。少し、気まずげに。
彼は定位置である隣のブランコに座ることなく、香耶の目の前に立った。初めて出会った日のように。
薄い唇が開かれた。
「あの、その……」
「ありがとう」
彼の言葉を遮って、香耶はそう言った。ありがとう。熱に浮かされながら、今日会ったら言うと決めていた言葉。
言われた当人はどうしてそう言われたのかわかっていない様子で、こてりと首を傾げた。これもまた、初めて会った日と同じように。「どうして?」と目で問いかけてくる。
香耶はそっと喉を震わせた。
「あなたがいなかったら、今でも葵だけが友だちで、鬱々とした日を送っていそうだったから。それに昨日、慰めてくれたし……」
「あれはただ、胸を貸しただけで――」
「それでも。ありがとう」
そう言うと、彼は照れくさそうにぷいっ、とそっぽを向いた。少しだけ頬が紅潮しているように見えるのは、夕日のせいではないはず。
そんな様子に思わず笑みをこぼしていると、不満げな表情を浮かべられた。せっかくの可愛らしい面持ちだったのに、と思わなくもないが、彼が「それで、」と、真剣な瞳で話しかけてきたら、気持ちを引き締めるしかなかった。香耶は正面から彼を見つめる。
「……これから、どうするの?」
そのことに関しては、すでに決めてあった。すぅ、と息を吸う。
「別に、なんとでも。正直葵とはあまり顔を合わせたくないし、今までのようには接せられない自信は、残念だけどある。だけど……とにかく、前を向いていこうって。それ以外のことは、そのときそのときでも十分じゃないかなって思ってるから」
「そっか」と彼は言った。安心したように。
今までの香耶だったら、たぶんこんなふうには思わなかっただろう。ひたすら嘆き、悲しみ、自分の殻にこもったに違いない。もしかしたらとうとう自殺をしていたかも。葵を失うということは、香耶をこの世に繋ぎとめている枷を失うということだったから。
だけど今は違う。たった二週間、されど二週間。その間に香耶は見違えるほど変わった。いつも鬱々としていて、下を向き、人と関わらず、一人ぼっちだった少女はもういない。幸せになろうと決意し、自分から動き始め、明るくなった。笑うようにもなった。たとえ葵という重石を失っても、宙に浮くことなく、地に立って生きていけるほどには。
だからもう、大丈夫。
香耶はにっこりと笑った。不器用じゃない、心の底からの笑み。彼を安心させるためのもの。
「あなたがいてくれなきゃ、たぶんこんなふうには思えなかった。ありがとう」
「――っ、どういたしまして」
そう言う彼は、くしゃ、と顔を歪めた。万感の思いを抱いているようでもあり、どこか泣きそうでもある表情……。
ふと、香耶は言い知れぬ不安を覚えた。なにか重要なことを見落としているような、そんな予感。ざわざわと胸を掻き立てるそれに、思わずきゅ、と胸元で手を握りしめる。
(どうして、こんな気持ちに……?)
そんなことを思っていると、彼は先ほどまでの表情を消し、からりと笑った。どこか作り物めいたもの。一歩、彼があとじさる。
「――ごめん、今日はもう帰らないといけないから」
「じゃあね」と言って、彼はくるりと背中を向ける。香耶の返事を待たないその態度に、慌てて「待って」と声をかけた。彼が振り返った。
「あの、その……」
呼び止めたけれど、何を話せばいいのかわからなくて視線をさまよわせる。口をはくはくと開閉させて……結局、「またね」としか言えなかった。彼はにっこりと笑うと、返事をせずに走り去っていった。
時計に目をやる。四時十分。まだいつもの時間にはほど遠い。
香耶は手に込める力を強めた。
(大丈夫……)
また、会えるはず。たとえ返事をしてくれなくても。
そう自らに言い聞かせても、不安が消えることはなかった。
――その日、四時半の鐘は鳴らなかった。
翌日、熱から回復した香耶は公園に行ったものの、結局彼が現れることはなかった。
その日も、そのまた次の日も。
四時半の鐘もまた、耳にすることはなかった。
最初のコメントを投稿しよう!