正体

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正体

 香耶はぼんやりと公園のブランコに座っていた。時刻は午後六時過ぎ。すでにどっぷりと日が暮れており、冷たい夜風が肌を滑った。思わずぶるりと身を震わせるが、ここから動こうとは到底思えなかった。 (どうして……)  心の中でつぶやく。〝彼〟が公園に現れなくなってから、すでに二週間が経っていた。ともに過ごしたのとほぼ同じ期間。最初のころこそ不安を覚えながらも、きっとまた会えると信じていられたのだが、今はもうそんな期待はできそうになかった。  それでも、香耶は公園に通い続けている。もしかしたらまたふらりとここに現れるかもしれない、と、ゼロに近い可能性を胸に抱いて。  五日前、彼の着ていた制服の高校にも一応行ってみた。下校時間、校門に寄りかかって彼が出てくるのを待った。けれど見当たらないどころか、「誰か待っているの?」と親切な人に話しかけられて、頷いて、それで特徴を言おうとして――彼のことをあまり覚えていないことに気づいたのだ。もちろん話したことや、ここの高校の生徒だということなどは、しっかりと覚えている。だけど不自然なほど、顔が、声が、ぼんやりとしか思い出せなくなっていて……。  香耶はそっとため息をついた。彼に関わると、不思議なことが起こっている気がする。今回の記憶のことと、――四時半の鐘。彼と出会わなくなってから一度もその時間に鐘の音を聞いていない。そもそもこれまで生きてきた間、ずっと聞いたことがなかったのだ。たまたま、香耶が彼と会っていたときだけ結婚式場が四時半にも鳴らすようにした――というのは無理があるだろう。では、あの音はいったい何なのだろうか? (頭がおかしくなりそう……)  元々あれこれと考えるのが苦手な(たち)だ。いろいろと考えていると頭から煙が出そうになる。実際にはそんなことになるはずはないけど……それくらい、頭の中はごちゃごちゃしていた。  頭を振って、いつものように考えるのをやめる。おそらく彼に会えばわかるはずだ。とりあえずそれを目指そう。 (と、なると……)  やはりここで待っているだけではいけないだろう。もう少し動いてみたほうがいいかもしれない。  それにそんな不思議な現象の原因究明に関わらず、香耶は彼に会いたかった。ここ数日は待つことしかできていないけれど、記憶が薄れていく前になんとかして会わないと。彼がいたから、香耶は今、ここにいるのだから。なにかに巻き込まれているのならば助けたいし、そうではないのなら……せめて、別れだけは言いたかった。それが自分なりのけじめ。  そう思い、ふぅ、と息をつくと、香耶は鞄を拾ってブランコから立ち上がった。キィ、と軋む音。だけどそれを特段意識することなく、香耶は夜道を歩き始めた。家への道のりを進んでいく。  しばらくして家が見えるところまで来て、香耶は思わず立ち止まった。珍しく、家に電気が()いている。父か母か、あるいは両方が帰宅しているらしい。  ……少しだけ気まずいというか恥ずかしいと思いながら、香耶は歩みを再開させた。玄関の鍵を開け、こそこそと扉の内側に滑り込む。  そのとき、パタパタとスリッパの音がした。母がリビングに繋がる扉から出てきた。 「おかえりなさい」  そう言ってふわりと微笑みを向けられる。  その瞬間、形容しがたい感情がどっと胸の内に溢れた。ここ最近、ぽつぽつと会話することはあった。昔のように軽いやり取りもするようになった。だけどこうして迎えられ、笑いかけられたのは本当に久しぶりで……。  目頭が熱くなった。視界がわずかに滲むが、ぐっとこらえる。今はこんな場合ではない、とそう言い聞かせて、香耶はにっこりと笑った。 「ただいま」  それから部屋に戻って制服から部屋着に着替えると、香耶は母と様々な話をした。学校のこと、最近読み始めた小説のこと。これまでは少しずつ関係が改善されたと言ってもどこかぎこちない雰囲気があったけれど、今ではそれも消え去っていた。ほんの幼いころのように、笑い合いながら話を進める。  その後父も帰ってきて、久しぶりに家族で雑談をした。胸が温かくて、楽しくて、くすくすと笑った。みんなで和やかな夕食を取って――そのとき、母が口を開いた。 「ねぇ、香耶、高里(たかさと)さんのお墓参りに行ってはどう? お母様も、香耶に会いたいって、前に言っていたし……」  思わず体を固まらせた。高里さん――高里(とおる)。あの事故の日、香耶を庇って亡くなった人のことだ。  香耶は今までその人の墓参りには行けていなかった。行こうと思ったことは、何回もある。だけどそのたびに〝人殺し〟だということを思い出して、体がすくんで、どうしても行けていなかったのだ。  そっと目を伏せる。――今なら、たぶん大丈夫。行ける。彼が〝人殺し〟じゃないと言ってくれたから。  それに、まだ心の底から自分が〝人殺し〟じゃないとは思えていなかった。それを乗り越えるためには、きちんと前を向くためには、墓参りに行ったほうが良いだろう。その人の母親にも会ったほうが良いに違いない。……利己的すぎる考えだけれど。  もちろん、改めて助けてくれた高里さんにお礼を言いたいという気持ちもある。だけどそれ以外の感情も大きかったのだ。  深呼吸をした。声が震えないよう、喉に力を込めて言う。 「行く」  わずかに上擦った声。  両親は顔を見合わせ、そして破顔した。安心したように。    ◇ ◆ ◇ ◆ ◇  数日後の土曜日、香耶は母親の運転する車に乗っていた。移り変わっていく景色をぼうっと眺める。と言ってもさほど変化はない。先日母が連絡したところ、高里さんの母親が近ごろ足が悪くなってきたとのことで、家の仏壇のほうに来て欲しいと言われたのだ。そのため、今は高里さんの実家に向かっている。  あの日、香耶が事故に遭いそうになった公園は、いつも行くところとは別であるがそれなりに近所であった。だからそのそばを偶然通りかかった高里さんもまた、それなりに近い場所に住んでいるということ。景色は常に住宅街で、さほど面白いものはなかった。  しばらくして車のナビが目的地周辺だと告げた。母は慣れた様子で高里さんの家を見つけると車を停める。もしかしたら、香耶に言っていないだけで、今までもこうして高里さんの家に来ていたのかもしれない。  車から出ると、母がインターホンを鳴らす。すぐに、高里さんの母親が出てきた。  六十くらいの女性だった。「いらっしゃい」と言って、香耶に笑いかけてくる。そのときにできた小さなえくぼにどことなく既視感を覚え、香耶は首を傾げた。……どこで見たのだろう?  母が土産を渡し、その場で会話をする。やはり母はこちらに来たことが何度があったらしく、「お久しぶりです」と挨拶していた。良好な関係を築いているようで、もし〝人殺し〟だと憎まれていたら、と考えていた自分が情けなくなる。息子を失った悲しみは深かっただろう。それなのにこうして母にも親しくしてくれ、今回もこうして迎え入れてくれる。すごくいい人だ。 「あなたが香耶ちゃん?」  ぼんやりと会話をする二人を眺めていたら、突然声をかけられた。「は、はい」と、慌てて返事をする。声がわずかに裏返った。  高里さんの母親はにこりと微笑むと、「会いたかったわ」と言った。優しげに。  香耶はきゅ、と手を握りしめた。胸に、言い知れぬ感情が湧いてきて。泣きたくなりながら、だけど涙がこぼれ落ちてしまわないよう気を引き締め、ふと気まぐれに、勇気を振り絞って、「……わたしを、」と質問を口にした。 「わたしを、恨んではいないのですか? わたしのせいで、高里さんは亡くなったんですよ?」  その問いかけに彼女はきょとん、と目を瞬かせたあと、「もちろん」と口を開いた。 「恨んだことだって少しはあるわ。だけど、あなたは亨が助けた子だもの。そんな子を恨むなんて、あの子は望まないわよ。むしろそのことであなたが苦しんでいるのなら『何がなんでも助けろよ!』って言いそうね」  そう言って彼女はくすりと笑った。愛おしげに目の細められた先。そこにはたぶん、彼の愛しい一人息子がいる。  しんみりとした空気が流れ、高里さんの母親がパン、と軽く手を叩いた。「中に入りましょう」そう言って、足を軽く引きずるようにして家の中に戻って行く。香耶と母はそのあとについて上がった。 「きっと亨も喜ぶわ。香耶ちゃんが元気になったって聞いたら。そういう、優しい子だもの」  そう言って、高里さんの母親はすぐ近くにあったリビングだと思われる部屋の扉を開けた。きれいに片付いた部屋で、白を基調とした部屋に、どんと黒々と輝く仏壇が置かれていた。一枚の写真が飾られている。  それを見た途端、香耶の全身から血の気が引いた。なぜ、どうして、と、疑問が湧き上がると同時に、今まで起きていた不思議な現象に得心がいった。  高里さんの母親は、にっこりと微笑む。なにも知らない笑顔で。 「香耶ちゃんは小さかったものね……あんまり覚えてないかしら? 亨よ」  そう言って指し示す先の写真には。  少し前まで公園で会っていた〝彼〟がいた。
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