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 祐子は薄暗い路地から塾のある大通りへと出た。色とりどりに輝いているネオンや行き交う車のヘッドライトが眩しい。  大通りにはたくさんの車も人通りもあった。  ほら、やっぱりわたしの聞き間違いだわ。こんなに賑やかじゃない。  北尾塾のほうからは赤色灯が見え、パトカーも確認できる。もうすでに保護されているかもしれないと安心しながら祐子は電話に呼びかけた。が、返事はない。  さっきからずっと呼び掛けていたが応答がないままだ。ノイズは聞こえるので通信が切れているわけではない。  北尾塾の前まで行くと街路樹の脇で所在無げに健夫が立っていた。  路肩にはパトカーが一台止まっているだけで緊迫した様子はない。 「あなたっ、文也は?」  祐子は自転車を立てながら訊いた。 「まだ。今、中を調べてくれてる」  靴音を立てて二人の警官が玄関の階段を下りてくる。 「あ、お巡りさんどうでした?」  健夫が尋ねる。 「お母さんが通報されてきたようなことはまったく起きてないんですが――」  警官たちは顔を見合わせ、困惑の表情で北尾塾を振り返る。 「ですが?」  聞き返す健夫の表情が曇り始めた。 「その――誰もいないんですよ。先生や事務員の方たちも生徒さんも」 「誰もいない?」 「きょうはどこか別の場所に移動するとか、言ってなかったですか?」  腑に落ちない表情を浮かべた警官たちは健夫を通り越して、祐子を見た。 「そんな予定は聞いてません。  で、どうなんですか? 本当に殺人事件は起きてないんですか? 電話で言ったんです。塾に男が侵入してきて先生や友達を襲っているって。  文也は? 文也はどこなんですか?」 「さっきも言いましたけど、そんな事件があったようにはとても見えないんですよね」  大通りを走る車のヘッドライトが二人の警官の端正な顔を照らしては過ぎていく。 「でも確かに言ったんです。鉈で頭が割られるのを見たって――」  恐怖で堪えきれず祐子は喉を詰まらせた。  我が子の見たものがどんなに恐ろしいものなのか、想像もできない。 「受付のスケジュール表で見たんですが、きょう塾長さんは出張らしくて、一度そこに連絡を取ってみます。  お父さん、お母さん、もうしばらくお待ち下さい」  そう言うと二人はパトカーのほうへと移動し、無線で報告を始めた。  祐子は北尾の顔を思い浮かべた。丸顔の人の良さそうな塾長はいつもにこやかに微笑んでいた。 「大丈夫だよ。何にも心配いらないよ」  健夫が祐子の肩を抱き寄せる。  文也がまだ見つかってないのに?  祐子はいらいらしてその手を振り払いたくなった。だが不安でたまらないのは健夫も一緒だ。  手の中の携帯電話から微かな声が響いていることに気付き、祐子は慌てて電話に出た。 「文也っ」  息子の名を聞いて健夫が電話を取り上げる。 「文也っ、どうした何があった」  その声に警官たちも振り向いた。  祐子は何度も名を呼んでいる健夫から電話を取り返し、自分もその名を繰り返す。  だが、助けを求める文也の絶叫が聞こえ、泣きながらくずおれた。  健夫がすぐ聞いてみたが、電話はすでに切れていた。  駆け寄った警官たちも電話を確認し、首を横に振る。 「お母さん助けてって、あの子が、お母さん助けてってぇ――文也ぁぁどこに行ったのぉ――」  返された携帯電話はツーツーと鳴り続けるだけで、ノイズも風の吹く音も聞こえない。  もう二度と文也に繋がらないのだと祐子にはわかった。  手から電話がすべり落ち、石畳の上に音を立てて落ちた。それを拾うこともせず祐子は北尾塾を見上げる。  玄関や窓から明るい光があふれていたが、どんなに目を凝らしてもそこには誰もいなかった。
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