野島

1/14
374人が本棚に入れています
本棚に追加
/113ページ

野島

 その日、芹川は数日ぶりに自宅に戻った。  芹川の住むマンションは、青山の閑静な地区に建っている。付近には美術館のほか商業施設も立ち並ぶが、高級住宅街ということもあって夜の雰囲気は比較的穏やかだ。  その青山のマンションに戻ると、数人の警察官がひとりの男を囲むように屯していた。 「マッポがいますね……どうします」  エントランスに車を寄せながら、運転席の井口が不安げに尋ねてくる。 「構うな。余所はいざ知らず、少なくともウチの事務所は連中に嗅ぎつかれる類のヘマはやらかしちゃいねぇ」 「でも、先日プランタンで……」 「馬鹿野郎、吉塚組とはとっくに手打ちを済ませてる」  もちろんヤクザである以上、法の穴を突いたグレーな仕事に手を染めることはある。が、少なくとも芹川に限れば、優秀な弁護士と日々綿密に打ち合わせをした上でフロントを含めた経営の方針を決めている。井口が抱く類の心配はさしあたり不要だろう。 「あれ、プランタンのコックじゃないですか?」 「……なに?」  改めて様子を窺う。間違いない。今はダウンジャケットにジーンズとラフな私服姿で、店で見かける白衣姿とは雰囲気も印象も異なるが、それでも、あの無駄に高い身長と無駄に良い体格、無駄に整った横顔には見覚えがある。 「まさかあの野郎、ここに住んで、」 「んなわけあるか。賃貸に出せばいくら取れると思ってやがる」  とりあえず井口が乗る車を見送ると、気合を入れ直すべく煙草に火をつける。しばしゆっくり煙の味を楽しむと、芹川は、意を決して警官たちに歩み寄った。 「悪い、そいつはウチの知り合いだ」 「えっ」  それまで警官相手にあれこれと言い訳を続けていた野島が、初めて芹川の方を振り返る。彼に憧れる女性客の恋も一瞬で醒めるであろう情けない顔で。 「せせせ、芹川さぁぁん」 「芹川?」  警官たちの目が、今度は芹川に注がれる。しかも、その表情から察するに一応こちらの素性に気づいているらしい。  もっとも、それはそれで余計な説明の手間が省けて済む。
/113ページ

最初のコメントを投稿しよう!