第一章

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 兄は美しい人でした。幼い頃、共に「史記」を父に学んでいた時に「香子と結光(これみつ)の容貌が逆であったらのう」と苦笑交じりに申されたことが有りましたが、気を悪くするよりも至極ご尤もだと得心した次第です。  私の家は藤原氏の末端に連なるとはいえ、しがない受領階級でございました。紫式部様や清少納言様と同じです。そして学者の家として、漢籍をこよなく愛した点も紫式部様のご実家と同様でございました。紫式部様がお仕えなさった中宮彰子様の御父君でいらっしゃる道長様の時代よりも百年が過ぎてしまいました。  摂政関白殿下ではなく、畏れ多い帝の位をお下りになられた上皇様が政治の実権を握るという時代の話で御座います。  私も父譲りの漢籍の知識と母から教え込まれた和歌の才が多少は世に広まっておりましたので、その御縁で宮中女房として禁裏にお仕えしました。  世の無常を感じる出来事の数々をお傍で拝見する度に胸の潰れる思いが致しまして、その後かねてからの念願でもありました仏の道に入ることになった次第ですが、もうこの世では会うこともない兄と、そして兄が心の底からお慕い申し上げた頼長様のことを書き記したいと思い立ちまして、拙い文を認める次第です。この草紙をお読みになった方には(何とたどたどしい筆運びよ。泉下の紫式部様には極楽浄土に参りましたら私は笑われるだろうとの誹りを受けること必然)とお思いになられるような文章ではありますが、この日記めいた物を書き綴ることで頼長様と兄のことを思い出す、(よすが)にもなると慄く指では御座いますが書き記しておこうと女ならではの浅はかな考えをどうかお笑いにならないで下さいませ。  兄は美しい人でした。そればかりでなく漢詩も和歌も楽器の才も優れており、当時の上皇様から、――内々のお言葉ではありましたが――畏れ多くも「道長公が三船の才を褒めた藤原公任(きんとう)殿も及ぶまい」と仰って下さったと承っております。帝のお位はとても尊いのは申すまでも御座いませんが、その分内裏からお出ましになるということは難しいのも事実で御座います。その点上皇様は別の院にお住まいになり、帝にお目にかかれる資格が有る男性は五位以上と決まっている宮中の仕来たりも御座いません。
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