第二章<結光視点>

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 覚えていて下さったのが不思議なくらいの、頼長様に比べるのも畏れ多いほどの微々たる官位ではありましたが「学者の家」としてのささやかながらも高貴な御方とも「漢籍の会」などでの交流も有るようで御座いました。頼長様もやまと歌よりも漢籍に馴染んでいらっしゃるようでしたので、きっとそのような会の時に父の名前を憶えて下さったのでしょう。 「はい。三条の堤邸(つつみてい)と申し上げればお遣いの方もご存知でいらっしゃるかと存じます。この御邸ほど知られているわけでは有りませんが」  そういえば、自分が院の御所まで乗ってきた――邸には三台しかない――牛車はどうなったのかと頭の隅で考えながらも今宵の逢瀬がもう待ち遠しくなってしまう、我が身や心持ちの変化に戸惑うばかりでありました。 「(かえで)をこちらへ」  頼長様が扇をお鳴らしになると、人の気配が近付いて参りました。恐らく人払いをなさって下さったのでしょうが。 「承りました」  裾捌きも鮮やかに若い女房と思しき方が下がって行かれました。 「では、夜桜の君、今宵もまた。楓が委細を承知しておるのでの」  楓様とおっしゃるのは、頼長様の一の女房なのでしょう。昨夜の私のあられもない姿を御覧になっていた女房殿の名前が確かそのような呼び名だったように思います。  頼長様は何ともお思いになっていらっしゃらないご様子でしたが、私には顔から火が出るほどに恥ずかしくて、そしてどこか甘やかな気持ちを持て余しておりました。 「楓、参ったか。こちらは夜桜の君と申す。これから楓に委細を委ねるゆえ、他の女房にはゆめゆめ任せるでないぞ」  楓殿は昨夜の――声や物音、そして頼長様に命じられた物を持って来られた時に目に入ってしまったであろう、私の恥ずかしい、あられもない姿まで――全て知っているとは思えないような静やかで落ち着いたご様子でした。 「畏まりました。夜桜の君、こちらで御座います。  殿は御参内の支度が既に整っておりますので、私の名代として小萩が侍っております」  早朝に相応しい小さな声ではありましたが、無駄なことは一切申さない点や裾捌きの見事さなどからも頼長様が信頼しているのも分かるような気が致しました。
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