第二章<結光視点>

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 頼長様の御心遣いの細やかさを忝くも有り難くも思いました。 「はい、何も仰ってはいらっしゃらなかったので、お気を悪くなさってはいらっしゃらないのでしょう」  学者として名を馳せている父に相応しい謹厳実直そうな容貌に安心したような笑みが浮かびました。 「そうか。それは何よりのこと。  それはそうと、左大臣様にはそなたの何がお気に召したのか。漢籍か、それとも笛の才か」  上皇様のお耳に入っても恥ずかしくないようにとあれだけ念入りに練習を重ねた笛でしたが、頼長様の御姿を見た途端に曲名を変えてしまったことまでは父の耳には届いていないようでした。  上皇様の御所――つまりは内裏ではない母后さまのご実家の御邸です――の宴に参加した雲の上人も、さらにその上の上達部(かんだちめ)の皆様方、頼長様も含めてですけれども、そういった方達が万が一私の噂をなさったとしても父上のお耳に届くのはまだまだ先のことになるでしょうが。  ただ、どう申して良いのか全く分からず、目を伏せたままで御座いました。 「殿様、芳子様が朝餉の前にこちらへのお越しを願っていらっしゃいますが……」  東三条邸での鮮やかな裾捌きなどとは比べるべきにも有りませんが、それでも静やかで落ち着いた感じの使用人の声に救われたようです。 「姫がこのような朝早くから起きているのは珍しいな。もちろん構わない」  その声を待ちかねたような感じで女房装束と呼ばれる十二単ではなく小袿姿の妹が入って参りました。 「父君、そして兄上も。あら……、兄上様、お召し物の薫物の香りが昨日とは異なりますわね」  無邪気に「良い香りですが」と目を見開いている妹はまだ男女の道について乳母からも教わってはいないと聞いておりました。  ただ父だけが驚きが強かったのでしょうか、手にしていた扇を取り落してしまっておりました。 「まさか……その道……なのか……」 「先に芳子の話を聞こうかの……。裳着(もぎ)を済ませておらぬ故に、な」  気分を変えるような感じで父上が仰いました。裳着とは女性が一人前になった証しを周囲に知らしめる儀式です。それ以降でないと殿方を通わすことも出来ないのが仕来たりで御座いました。  その間に、どう答えれば良いのかと考える時間が与えられたのは幸いでした。
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