第二章<結光視点>

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「先に芳子の話を聞こうかの……。裳着(もぎ)を済ませておらぬ故に、な」  気分を変えるような感じで父上が仰いました。裳着とは女性が一人前になった証しを周囲に知らしめる儀式です。それ以降でないと殿方を通わすことも出来ないのが仕来たりで御座いました。  その間に、どう答えれば良いのかと考える時間が与えられたのは幸いでした。  父上は――お忍びで通われている女性がいらっしゃるかどうかまでは存じませんが――亡くなった母の後には北の方と呼ばれる正妻を迎えようとはせずに私達二人を育てて下さいました誠実な「まめ人」で御座います。ですから父上も妹が気付いた薫物の香りがなければ、音楽とか漢籍の話で一夜を明かしたと思い込んでしまうのも道理で御座いました。 「あてきが、唐猫を拾ってきたと申しまして。確かに見ない猫ではありますが、そんな高価な舶来の猫が綱や紐を付けずに飼っていらっしゃる御邸など聞いたこともないのです。  ですからお父上や兄上に伺ってみようかと思いまして」  妹の弾んだ声が無邪気に響いて、ともすれば沈みがちなこの部屋の雰囲気を明るくしてくれるのが救いでした。  あてきというのは、妹付きの女童でございます。 「これこれ、唐猫など私も見たことがない。書物の中には度々出てくるが……。どんな猫か見てみたら分かるやも知れぬが」  御堂関白道長様の御姉上がお産み申し上げた一条帝が五位(ごい)という官位と――父上がこの御年でやっと上り詰めた位で御座います――「命婦(みょうぶ)のおとど」という名前をお与えになり可愛がられた猫がまさしく唐猫だったと重い現実から逃れるように考えてしまいました。 「あてき、参りなさい」  子猫を大切そうに抱いた、あてきがおずおずとした感じで入って参りました。 「その猫か……。黒と白が混じっているので多分違うな」  唐猫は私もこの目で見たわけでは有りませんが猫としては大きくて――と申しましても、あてきが抱いているのはほんの子猫でした。みゃあと鳴くことも出来ないほどの――夜の闇のごとき漆黒ではなくて、煙るような「黒さ」とか物の本に書かれておりました。 「こういう猫は、その辺りで見かけるので違うだろう。御邸の奥深くではなくて道すがらに良く見るような類いの猫だし……顔立ちは可愛いが」
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