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学者の家の常として各家のご立派な祖先の日記が小さいとはいえ屋敷にはたくさん集まって参ります。本来ならば藤原氏嫡流の小野宮家の藤原実資公がお書きになった――こちらは男性が書く日記でございますので漢文です――「小右記」も読みました。学問の深さなど関心する点は、さて置いて道長公が読まれた和歌「この世をば我が世と思ふ望月の欠けたることもなしと思へば」は決して優れた歌ではありません。実際道長公を称賛する「栄華物語」や「大鏡」には載っていないのもそのせいでしょう。本来ならば藤原氏の長者になるはずだった実資公の恨み辛みからこの和歌を日記に記したのではないかと思ってしまいます。
国司ではなく式部省に出仕したいと父上に申し上げると我が意を得たりとばかりに笑んで下さったので、大学寮に入るために手に入る限りの漢籍を暗記致しました。孔子様の教えの「四書五経」は特に念入りに。
作り物語ではありますが、源氏の君のご長男も父上の位で五位という帝の普段いらっしゃる清涼殿の殿上の間に入ることを許される位を得る資格を与えられて当然の、私にとっては雲の上人、いわゆる雲客でも光の君の親心で試験を経て大学寮に入られたのですからご立派です、物語ではありますが。
前世の行いが良かったのでしょうか大学寮に入ることが許されて学問修行を一心不乱に行ったとはいえ、周囲の噂は聞くともなしに入って参ります。
藤原頼長様のことが専らでしたが。
あの御方は道長様直系の摂関家にお生まれになったのですが三男でいらっしゃいました。
しかし、お子様の中では最もお父上に愛されて「頼長」というお名前も道長公とその跡継ぎで平等院鳳凰堂を建立なさった頼通公の字にちなんだものです。漢籍や儒学に精通なさっている点も畏れ多いことではありましたが何だか慕わしく思いました。
こう申すのは僭越ではありますが家柄だけで官位を帝から頂戴して今身分の上下を問わず流行っている白拍子の舞やその後の宴にうつつを抜かす方々が多く、内裏には口実をこしらえて出仕を怠っていた者の官位を下げるという、私にすれば至極ご尤もなお達し、そして何より御父上忠通公も「摂政関白の器」と兄上達を差し置いて認めさせる実力がお有りでした。
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