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それからはあまり覚えていない。
ただ、気がついたら、目の前には荒れ果てた彼の姿があった。
目を閉じた彼は、私が今朝見た寝顔と同じだった。
何度も撫でた黒色の柔らかい猫っ毛。
何度もなぞった左の目元にある泣きボクロ。
何度もキスを交わした唇。
長い睫毛も本人は嫌っていたけど私は大好きだった。
そこには全てがあった。
そこに全てあるはずなのに、
『ねぇ…ねぇってば…
…夏樹?』
私の名前を呼んでくれたあの優しい声はなかった。
私は叫んだ。
部屋は酷い不協和音で響き、空気は一瞬にして凍った。鼓膜が破れるほど強烈な音は部屋の外まで漏れ出て、その場にいる全ての人が俯いた。
なんて叫んだかは覚えてない。
手に残る冷たい感触がさらに涙を誘った。
涙がとめどなく溢れて、喉がジリジリ熱くて、胸が痛くて痛くて仕方なかった。
全てが崩れ落ちていく音がした。
そこからは早かった。
息つく暇もなく葬儀やら書類やらに追われた後、あっという間に見栄だけの日常が帰ってきた。
ひとつ違うとしたら彼がいないことだった。
私は夢の中にいる気分だった。
まるで幽体離脱でもしたかのように遠くから私を見ていた。夢の中にあるテレビの画面の先には、私に似た人が誰かに用意されたみたいな言葉を淡々と口から出している。
そこには悲嘆的な感情なんてまるでない、冷たい女がいた。
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