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第十一章
「おかえり、陸。どうだ? 久し振りの日本は――」
圭の承諾を得た槇原は、日本での仕事が多忙なこともあり断腸の思いで一人、シアトルを後にした。それからは、日本で陸を受け入れる準備をしつつ、首を長くして今日までの日々を過ごしてきたのだ。
あれからひと月。
やっと陸に会える。これからはずっと一緒に過ごせる――。
予定の一時間以上も前から到着ゲート付近で陸を待つ槇原は、逸る気持ちを抑え込むことに必死だった。
槇原が帰国する前の日。
「サシで飲みに行くぞ!」
圭に誘われ、二人きりで飲んだ。
恨み言でも吐かれるのかと身構えていた槇原に、圭は意外な話を聞かせてくれた――
「おばさんが亡くなってな――」
陸は6歳になる誕生日の当日に、圭以外の肉親を一気に失っている。
その後、多忙な仕事に就いていた圭に引き取られた陸は、家政婦紹介所からやってきた初老の女性――件のおばさんと、殆どの時間を過ごしてきた。
彼女が実に献身的に彼らの世話をしていたことは、槇原もよく憶えていた。口癖は『ここが最後の職場です』だったか……。
特に精神的ケアを要していた陸に対しては、肉親のそれのように、温かくも厳しく、雇用者・被雇用者という枠を決して崩すことのない絶妙なバランス感覚で、渡米までの9年間を樫本親子と伴奏してくれていた。
渡米後も、なにかれとなく陸の相談相手になってくれていたことは、槇原の記憶にも新しい。
「3年前、偶然おばさんが危篤だということを知ってな、二人で仕事の合間を縫って帰国したんだ」
その帰り際、槇原の入院していた大学病院に足を延ばしていたという――
「3年前……ってことは、俺は未だ車いすだったんじゃ?」
「ああそうだ。お前、あぶら汗を流して立ち上がろうとしてたが、生まれたての小鹿みたいに何度も頽れてな――」
陸が泣いたんだ。
声を掛ける気は無かったが、それが互いの力になるのであれば会わせても良いと圭は考えていた。しかし、陸の返事はNOだったという。
「俺も、そんな姿を見られたことを知ったら、情けなくて叫び出していたかもしれません」
あの過酷なリハビリの日々を思い出し、荒んだ精神状態の中での一縷の希望が陸であり、細々とでも圭と繋がれているという、その現実だけが槇原の支えだったことを改めて思い起こす。
今の槙原があるのは、荒れ狂いそうになるタイミングで圭が寄越してくれるさり気ない近況メールと、陸の存在そのものだった。
それが無ければ――過酷なリハビリなど当に諦め、未だに車いす生活だっただろう……
その晩は名残惜しい気持ちもあり、したたかに飲み交わした。
帰り際、『くれぐれも陸を頼むな』と圭は改めて言い、槙原に深々と頭を下げた。圭から陸を託された槇原は、身の引き締まる思いで真摯にその言葉を受け止めていた。
「実はね、良さん。僕は3年前に一度帰国してるんだ……」
「その話は、先輩から聞いたぞ。おばさんのこと、残念だったな――」
陸は、16年ぶりに、日本で生活をするために戻ってきた。
出立前、圭は陸に纏まった金を渡すつもりでいた。
陸に必要だと思った時に手渡そうとプールしてあったというその金は、母や祖父母を失った時の事故保険金だという。
あまりにも大きな金額に驚いた陸は、必要な分だけを受け取ることにして、残りはこれまで通り圭に管理してもらうことにした。
陸自身もしっかりと貯蓄をしていたので、そう多くの金を必要とはしていなかったことや、槇原から『金の心配は要らない』と言われていたこともその理由のひとつだった。
積年の思いが実り、陸を日本に迎え入れることができた喜びを隠しきれない槙原は、空港から直行で店に向かっていた。
「わあ! ジーナの店と同じだ――」
感嘆した陸が思わず声を上げた。
「そうだろう? 去年先輩から店の設計図を送って貰って、それを基に新築で再現してもらったんだぜ?」
嬉々として説明する槇原の説明を聞きながら「え? 去年? 圭に……?」少々、不穏な口調で陸が答える。
「先輩は口が堅いからな。陸には『自分の口から伝えたい』と言った俺の気持ちを尊重してくれたんだろう」
「うん、そうだね――でもさ、僕だけが何も知らされていなかったって言うのは少し複雑だ」
嬉しさと複雑さを綯い交ぜにした表情の陸を、やはり『可愛い』と心の中で思ってしまう槙原だったが、『31にもなって、可愛いって言われたくない!』と不機嫌になる陸の気持ちを鑑み、決して口には出さなかった。
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