第十一章

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 カロン カロン カロン……  素朴で穏やかな音色が、店内に鳴り響く。  シアトルを離れる直前、陸は我儘を承知のだめもと(・・・・)で、『このカウベルを譲って下さい……』そうジーナにお願いした。 『勿論OKよ!』  ふたつ返事で応じてくれたジーナは、俄かに目を潤ませた。 『リックが――……。リックが、あのリックが……ッ! やっとあたしにも我儘を言ってくれたわ!』  頬を伝う涙を拭おうともせずに、ジーナは陸を強く抱きしめた。  自分は、こんなにもジーナに心配を掛けていた。そして、同時に愛されていたのだ――ぎゅうぎゅうと抱きしめてくる力強いジーナの腕のぬくもりを通し、瞬時にして陸はその事に思い至り、心からの感謝を伝えた。  その代わりと言っては何だが、陸からは新品のカウベルをジーナにプレゼントしていた。そのベルと共に、新しい歴史を圭と築いて欲しい――。  そんな願いを込めて。 「いらっしゃいませ」  大好きな音色と共に、大柄の影が慣れた様子でするりと入ってきた。 「ただいま、陸」 「あっ、おかえりなさい、良。今日は早かったんだね?」  あれから半年経つ。  この店を開業したのは、先月。  慣れない土地での店長業務――  陸が困ってやしないか? 何か手伝うことは無いか? ……。槇原は仕事など放り出し、陸の元にいつでも寄り添っていたい、そんな衝動を日々遣り過ごすのに必死だった。 「ああ。思ったより仕事が早く済んだんだ。何か手伝うことでもないかと思って、急いで帰ってきたんだが……。もう無さそうだなぁ」  店内をぐるりと見回した槇原は、カウンター席から少し身を乗り出し磨き込まれたキッチンを覗いた。    「いま終わったところ――」  陸は帰国早々、内装業者と相談しながら店のハード面に手を入れたり、食器や調度品などを買い揃えたりと引っ切り無しに動き回っていた。  一方で、飲食店の開業に向けた国家資格取得の講習会に参加するなど、計画的に開業準備を進めていた。  この時を目指し、コツコツと勉強してきたノウハウを遺憾なく発揮している陸の姿からは、既に庇護される(・・・・・)存在としてのそれは完全に消失し、立派に自立した男(・・・・・)になっていた。  開業日当日――小さな店内はお祭り騒ぎの様相を呈していた。  真っ先にシアトルから祝いに駆けつけてくれた、圭とジーナ。  旅行を兼ねて同行したという、ジーナの娘家族。  おばさん(・・・・)の孫たち三人は、新しくできた従兄弟(・・・・・・・・・)の開業を自分のことのように喜び、『胡蝶蘭の鉢植え』を持って来てくれた。  槙原の姉家族はすっかり陸を『嫁』扱いし、姉は圭に向かって『良介が馬鹿なことをしないように、しっかり見張っておきますからね!』と、髙らかに宣言し、あまつさえ連絡先まで交換していた。  陸ひとりではキッチンを回す事だけで精一杯で、ゲストであるはずのジーナがフロアを切り盛りしてくれた。 『また、こんな風にリックと働ける日が来るなんて――』  閉店後、ジーナは声を詰まらせて呟いた。  圭と槇原は、そんな一連の様子をカウンター席の片隅で終始見守りながら、互いに陸の成長を喜び合った。  ここは東京の郊外。  ローカル線しか停まらない小さな駅の目の前に佇む店の名前は、『洋風食堂 R's Diner』。  簡単に言えば、陸と良の頭文字『R』からのネーミングだ。  そのネーミングセンスは如何なものか? と脳裏を過ぎりはしたが、『圭が付けてくれたことが重要』だという陸の満足そうな様子に、槙原も『悪くないかもしれないな』などと考えを改めた。 「さあ、帰ろう」 「――そうだね。でもちょっと待ってて。コーヒー淹れるから飲んでいってよ」  少しの間を置いて、陸がそう誘いをかけてきた。 「有り難い。家で飲むコーヒーも最高だけど、この店で飲むコーヒーはシアトルを思い出して、また違った味わいがあるんだよな――」  通信社時代の実績やその後の受賞歴、フリーランスカメラマン時代の各種業績を高く評価された槇原は、今ではその道の第一人者として多方面からの仕事を請け多忙を極めていた。  それに加えて、今年度からは出身大学での講義も受け持っている。  時折舞い込んでくる最前線への取材については、圭と固く約束しているし、自分自身も陸と離れる生活について考える余地もないので、全て固辞していた。  後遺症により引き摺っていた左足は、リハビリの限界を迎え半ば諦めていたところ、海外で新しい技術を学んで帰国したという専門医が再度の手術を施してくれた。術後、膝の可動域はかなり広がった。  槇原自身も日々の筋力トレーニングを欠かさず、自助努力に余念が無い。  それらの相乗効果もあり、今では言われないと分からない(・・・・・・・・・・・)程度にまで、槙原の歩行状態は回復していた。
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