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被弾して日本に戻ってからの槇原は、一年半の入院生活を余儀なくされた。
退院後は、姉家族の住む実家で療養生活をしながら『自力歩行』を最終目標に掲げ、入退院を繰り返した。数回にわたる手術やそれに伴う過酷なリハビリにも、死に物狂いで耐えてきた。
一方、不自由な身体ではこれまでのようにフリーランスカメラマンとしてフレキシブルに活動することは困難だ。そこで、今後の活動拠点を日本に置くべく引っ切り無しに舞い込んでくる依頼を取捨選択し、着実に基盤を築いた。
その後、回復が確固たるものとして自分の中に兆したとき、陸の帰国を鑑みた槇原は共に生活するためのマンションを購入した。
店からは一駅だけ東京寄りだったが、徒歩でも20分もあれば帰宅できる場所だ。元より足が不自由だった槇原にとって、快速も停まる駅は利便性が高かった。
そしていま、二人はこのマンションで暮らしている――
今夜のメニューは、チリコンカーンだ。
今度店で出そうと考えているメニューを試作したから、アドバイスが欲しいという。
「良、味はどう?」
陸が作ったもので不味いものなど皆無だ――。
つい、そんな本音を漏らしそうになるが、先日それを口走ったら『真面目に答えてよ!』とかなり憤慨されてしまったので、これはNGワードとして槇原の中の『陸に嫌われないための虎の巻』にしっかり加筆した。
「これ、旨いな。ジーナに教わったのか?」
褒められると嬉しいのだろう。相好を崩し、少しずつ饒舌になる。
「ジーナの店にはヒスパニック系のお客さんが殆ど来なかったから、メキシカンは出してなかったんだよ」
「そういえば、シアトルじゃあまり見かけなかったか……。じゃあ、どうして?」
この質問が来るのを待ってましたとばかりの、少し得意な表情がなんとも愛らしい。
「うん。日本人は、どうもアメリカ料理とそれがごっちゃになってるみたいだって聞いたから、試しに作ってみたんだ。数駅先には大学もあるし、若い人にも食べに来て貰えるんじゃないかな、と思って――」
驚いた。陸はしっかりと、店の客層まで視野に入れてメニュー構成を考えていたのだ。和食を取り入れたメニューも、『地域住民に食べて貰いたいから』と、以前から検討している。
「そうか。陸は勉強熱心だな」
食後『世界一旨いコーヒー』に舌鼓をうち、動画メッセージ付きのメールで圭とジーナに挨拶を済ませた。
これを怠ると、圭が執拗に電話攻撃を仕掛けてくるのだ。先日それをやられて以降、決して怠ることなく送り続けている。
「そういえば、この前閉店の後に来た二人連れ覚えてる?」
「カフェレストランをやってるっていう、二人連れか?」
陸が大きく頷いて話を続けた。
「うんそう! 今日、商店街で買物してたら、西島さん、ってわかるかな? 良の仕事のことを聞いてた方の人。その西島さんにばったり会ったんだ。でね、『来月、一緒に柿を収穫しませんか?』って誘われたんだ」
「柿?」
「うん、柿。『槇原さんも誘って』って言われたんだけど――。良、あのさ……」
陸が急に不安そうな表情になり、少し甘ったれたような喋り方で槇原から目を逸らす。そんな可愛らしい仕草がどれだけ槇原を煽るかなんて、当然お構いなしのナチュラルな所業だ。
「どうした? 陸は柿嫌いなのか?」
「違うんだけど。ほら、西島さんってさ……、背が高くて、ハンサムで、話しも面白いし、良と気が合ってたみたいだし、素敵な男性だったなって。――それに、良の仕事のことも……」
おいおい! いい加減にしてくれよ。これ以上、可愛いこと言われたら……、今夜も箍が外れるぞ――。
「……」
「んんッ、ちょっと……なに、す…る……」
「妬いてるのか? 陸……? 俺が、陸以外に――……」
もじもじと言葉を紡ぐ、その、陸の愛らしい唇をふさぐため、槇原は濃厚なキスを仕掛ける。
――陸が妬いていると知っただけで、こんなに心が浮つく四十路がいるのだろうか……。考えるだけで顔から火が噴き出しそうになるが、嬉しいものは嬉しいのだ。こればかりは仕方がない。
「陸、しよう!」
「え? 昨夜もしたし……」
ハの字の眉でしかめっ面をする陸も、やはり可愛い。
「……だめ、か?」
少々ガッカリしたが、受け入れる側の身体的負担を考えれば、今夜は自分が潔く引くべきであることは明確だった。
「じゃあ。お願いが、あるんだけど……。嫌がらないで、聞いてくれる?」
陸からのお願いならば、どんなことでも受け入れて、なんでも叶えてやりたい。
それは、紛れもない槇原の本心だ。
「ねえ、良――?」
「ああ。なんだ? 陸?」
「あの、さ――……」
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