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終章
「はあー! 汗だくだね。良も疲れたでしょう? でも、楽しかったなぁ」
Tシャツの裾からパタパタと火照った素肌に空気を送り込み、肩で額の汗を拭う陸――その姿は相変わらず線が細く、遺伝的な美貌も健在だ。齢30をとっくに過ぎていると言っても、なかなか信用を得るのは難しいだろう。
近頃では、そこに一国一城の主としての貫禄も備わり、男性としての魅力も加速度的に増している。当然それは喜ばしいことであり、槇原としては誇らしくさえ感じている。どうかすると陸のことで頭がいっぱいになり、離れている時間がもどかしいと思う事もしばしばだ。
自分はこんな鬱陶しい人間だったのか……? これまで感じたことの無い種類の不安に苛まれる槇原だったが、それも悪くないと一方で思っている。
近くでカフェレストランを営んでいるという二人連れが店の偵察にやって来たのは、約一か月半前で夏の終わり頃だった。その後、商店街で偶然再会し連絡先を交換して以降、陸とシェフの西島との交流は細々とだが続いていたようだ。
「良、柿の収穫の日程が決まったってメールが来てるけど、一緒に来られる?」
半月ほど前に陸から打診をされ、槙原は精一杯遣り繰りをつけた。
彼らがどのような店を営み、陸にとってどのような存在なのか? 先輩じゃあるまいし……。そんなことを考えてしまう自分の思考と冷静に向き合えば赤面ものだが、こればかりは致し方無い。
槙原は、陸のことがこの上もなく大切で、可愛くて、愛しているのだ――
店から10分ほど歩くと、昔ながらの閑静な住宅街が眼前に広がる。
その住宅街のとば口、手入れの行き届いた季節の草花と常緑樹がセンス良く配された植栽に囲まれているのは、件のカフェレストランだった。道を挟んだその向かいには、重厚な門構えのお屋敷がある。
今日は、そのお屋敷の庭で重たそうに枝をしならせ、たわわに実っていた柿を男4人で収穫した。心の中では『たった三本なんだから楽勝だろう』と高を括っていた槇原だったが、その木は想像以上に大きくて枝ぶりが良く、一本から数百個の実が採れた。
彼らが男手を欲していた理由は、直ぐに理解できた。
早朝からの作業だったが、結局片付けが終了したのは既に日が傾きかけた頃だった。
「お疲れになったでしょう。少し休んでいかれませんか?」
オーナーギャルソンの桂木に誘われ、季節感あふれるガーデンテラスで軽食とコーヒーを振舞ってもらった。
「凄い! ここで焙煎をしてるんですか!? 今度、僕にも勉強させて下さい」
「勿論! なんなら、一緒に豆の買い付けに行かないか? 俺がこだわって導入してもらった自慢の焙煎機もがあるから、いつでも使いにおいで、ねっ? いいですよね?」
西島が桂木に目線を向けて確認すると、「大歓迎ですよ、樫本さん。いつでもいらして下さい」とにこやかに答える。
臨時休業(彼らは『柿休業』と呼んでいたが)だという彼らの店では、採れ立ての柿や西島の作る小洒落た軽食プレートが思いのほか旨かった。
元大手商社に勤めていたという桂木の、節度を保ったスマートな会話術にも好感が持て、槙原もすっかり彼らと打ち解けていた。
一方の陸もキッチンで西島の仕事振りを目の当たりにし、その徹底したプロ意識から新たな刺激を受け、半ば興奮状態だった。
それから小一時間ほど談笑した後、槇原と陸は自分達の住むマンションに帰宅し、久々の重労働で汗だくになった身体を交互にシャワーで流した。
「柿の収穫っていうか果物を木から採ったこと自体、生まれて初めての経験だったけど、楽しかったな。おばあさんも優しかったし――」
お屋敷の老婦人にすっかり気に入られてしまった陸は、老婦人の話し相手をしながら収穫した柿を選り分けて箱詰めする作業を主に担当していた。
「俺が子供の頃は、そこいらにたくさんあって、勝手にもいで食ってたもんだけどな」
「そうなんだ……」
子供の頃に外遊びを殆ど経験していない陸には、ピンと来なかったようだ。
「柿、シアトルのマーケットでも見かけたこと無かったよ」
「日本独特の果物なのか?」
「分かんないけど、あっちじゃポピュラーでは無かった……、と思う」
「地味な甘さだが、旨いよな」
「今度、西島さんがドライにしたやつも食べさせてくれるって言ってた」
「手作りの干し柿か? それも、楽しみだな」
心地良い疲労感のなか二人でゆったりと過ごす時間は、心身共にリラックスできる至福のひとときだ。
「……」
一瞬間、陸が黙り込む。
「どうかしたか? 疲れたのか、陸……? ンッ……⁉」
突然立ち上がった陸が槇原の背後に回り、後ろから強く抱き着いてきた――
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